大浦天主堂へ行った時に、裏手にある神学校跡の建物にも入ってみました。前日に外海の出津や大野の教会堂へ行っていたので、同じド・ロ神父によって建てられた建物と知り、内部に紹介されていた建物に関する歴史に興味が持てた。
「信徒発見」の10年後にプティジャン神父が大浦天主堂の敷地内に作った神学校です。建築はド・ロ神父によるもので明治初期の大型西洋建築の希少性から国の重文指定されています。ここで日本でごく最初の時期にガラス窓が使われたようです。内部はキリシタン資料館なので興味のある方は見ると理解が深まります。
大浦天主堂の正面から見て右手の奥の建物が、この旧羅典神学校でした。一部3階建てのたてものです。 この建物は、大浦天主堂に向かって登っていく石段の途中の左手にあった白い銅像になっているプティジャン神父によって計画されて作られた神学校なんだそうです。明治8年に完成したこの神学校は、大正15年まで、神学校の校舎兼宿舎として使用されていたそうです。
大浦天主堂すぐ横にある建物です。教科書で有名な踏み絵など展示されており、長崎のキリシタンの歴史がわかる博物館になっています。 なぜキリスト教が禁止されたのか。そこについてはまったく触れられておらず、一方的に迫害されたかわいそうな弱者キリシタン。的な扱いになっているのがモヤモヤしました。イエズス会による日本人女性の奴隷売買などについてもしっかり説明されればとても良い施設になると思います。
白い壁とその端正な姿がとても美しい大浦天主堂。その正面入り口の右奥にあった建物が、こちらの旧羅典神学校です。 1875年に、司祭養成のための学校として作られた建物は、白い壁に黒い柱や窓枠がよく建物でした。3階部分は学生たちの宿舎として使われていたそうです。現在はキリシタン博物館になっていて、見学することができました。
大浦天主堂の裏手にある神学校跡
大浦天主堂へ行った時に、裏手にある神学校跡の建物にも入ってみました。前日に外海の出津や大野の教会堂へ行っていたので、同じド・ロ神父によって建てられた建物と知り、内部に紹介されていた建物に関する歴史に興味が持てた。
明治8年建設の神学校
「信徒発見」の10年後にプティジャン神父が大浦天主堂の敷地内に作った神学校です。建築はド・ロ神父によるもので明治初期の大型西洋建築の希少性から国の重文指定されています。ここで日本でごく最初の時期にガラス窓が使われたようです。内部はキリシタン資料館なので興味のある方は見ると理解が深まります。
神学校の校舎兼宿舎だった建物です。
大浦天主堂の正面から見て右手の奥の建物が、この旧羅典神学校でした。一部3階建てのたてものです。 この建物は、大浦天主堂に向かって登っていく石段の途中の左手にあった白い銅像になっているプティジャン神父によって計画されて作られた神学校なんだそうです。明治8年に完成したこの神学校は、大正15年まで、神学校の校舎兼宿舎として使用されていたそうです。
キリシタンの歴史資料博物館
大浦天主堂すぐ横にある建物です。教科書で有名な踏み絵など展示されており、長崎のキリシタンの歴史がわかる博物館になっています。 なぜキリスト教が禁止されたのか。そこについてはまったく触れられておらず、一方的に迫害されたかわいそうな弱者キリシタン。的な扱いになっているのがモヤモヤしました。イエズス会による日本人女性の奴隷売買などについてもしっかり説明されればとても良い施設になると思います。
大浦天主堂の右奥に建つ司祭養成のための学校でした
白い壁とその端正な姿がとても美しい大浦天主堂。その正面入り口の右奥にあった建物が、こちらの旧羅典神学校です。 1875年に、司祭養成のための学校として作られた建物は、白い壁に黒い柱や窓枠がよく建物でした。3階部分は学生たちの宿舎として使われていたそうです。現在はキリシタン博物館になっていて、見学することができました。