ウォーターフロントパークから山形屋方向に歩いていて途中にありました。電車通りをはさんだ先の山形屋の駐車場のそばです。第二次大戦末期の鹿児島大空襲の戦災鎮魂碑です。現在の鹿児島市からは想像しづらいですが、鹿児島市も空襲の被害を受けた都市です。
いづろ通りの停留場を東のウォーターフロント方向に行ったところにあります。滞在したホテルのすぐ近くでなんだろうと見学しました。太平洋戦争の終戦を間近に控えた6月にあった空襲による犠牲者の鎮魂の碑でした。あまり鹿児島に戦争被害のイメージはなかったのですが、認識を新たにしました。
山形屋パーキングの前に戦災鎮魂慰霊の碑があります。 鹿児島大空襲で亡くなられた多くの御霊を慰霊する碑です。 碑文によると、昭和二十年六月十七日、太平洋戦争の終戦を間近に控え、鹿児島市は大空襲により甚大な被害を受けた、とあります。 犠牲者を哀悼し永遠の平和を願わずにはおられません。
碑文の内容は、 昭和二十年六月十七日、太平洋戦争の終戦を間近に控え、鹿児島市は大空襲により甚大な被害を受けました。市街地中心部の堀江町広馬場通りの三ヶ所の防空壕において、戦災死した春成直助一家七人をはじめ、多くの戦争犠牲者の無念の霊魂は、浮かばれることもなく、歳を経るごとに、風化されようとしています。 沈吟、空しうして慟哭悲嘆、寂々哀愁憐れむべし。 我ら志あるものが、慰霊の誠を捧げ命の尊さを...
平成16年6月18日建立。堀江町の山形屋パーキング前にある。表側は「碑文」 、裏側は「鎮魂」の文字・・・。今までマイアミ通りを何回も通ってきましたが、正直このような碑があるとは気が付きませんでした。昭和20年の鹿児島空襲の悲惨さと命の尊さ、そして永遠の平和を願う碑です。
いづろ通近く
ウォーターフロントパークから山形屋方向に歩いていて途中にありました。電車通りをはさんだ先の山形屋の駐車場のそばです。第二次大戦末期の鹿児島大空襲の戦災鎮魂碑です。現在の鹿児島市からは想像しづらいですが、鹿児島市も空襲の被害を受けた都市です。
終戦の間近の空襲
いづろ通りの停留場を東のウォーターフロント方向に行ったところにあります。滞在したホテルのすぐ近くでなんだろうと見学しました。太平洋戦争の終戦を間近に控えた6月にあった空襲による犠牲者の鎮魂の碑でした。あまり鹿児島に戦争被害のイメージはなかったのですが、認識を新たにしました。
御霊を慰霊
山形屋パーキングの前に戦災鎮魂慰霊の碑があります。 鹿児島大空襲で亡くなられた多くの御霊を慰霊する碑です。 碑文によると、昭和二十年六月十七日、太平洋戦争の終戦を間近に控え、鹿児島市は大空襲により甚大な被害を受けた、とあります。 犠牲者を哀悼し永遠の平和を願わずにはおられません。
風化させてはいけません
碑文の内容は、 昭和二十年六月十七日、太平洋戦争の終戦を間近に控え、鹿児島市は大空襲により甚大な被害を受けました。市街地中心部の堀江町広馬場通りの三ヶ所の防空壕において、戦災死した春成直助一家七人をはじめ、多くの戦争犠牲者の無念の霊魂は、浮かばれることもなく、歳を経るごとに、風化されようとしています。 沈吟、空しうして慟哭悲嘆、寂々哀愁憐れむべし。 我ら志あるものが、慰霊の誠を捧げ命の尊さを...
昭和二十年六月十七日の記憶・・・。
平成16年6月18日建立。堀江町の山形屋パーキング前にある。表側は「碑文」 、裏側は「鎮魂」の文字・・・。今までマイアミ通りを何回も通ってきましたが、正直このような碑があるとは気が付きませんでした。昭和20年の鹿児島空襲の悲惨さと命の尊さ、そして永遠の平和を願う碑です。