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【うなぎの寝床】
(福岡県八女市 旧国名:筑後)
<文化の継承に伴走する“地域文化商社” 九州の魅力を解析し、次世代へ提唱します>
「地域文化商社」―――
この聞きなれない企業体が目指す活動を、“うなぎの寝床”は次のように言い表します。
“土地性を紐解き流通を担い、交流を生み、風景をつなぐ。”―――
福岡県八女市(やめ)の中心地福島は、江戸時代の商家町、職人町の趣を街並みに留めます。この一帯は、九州が筑紫(つくし)と呼ばれた古代より、静謐で豊かな自然と、深遠な輝きを放つ文化を受け継いできました。しかし、激動の時代にあってその継承は容易なことではなく、現に多くの工芸品や芸術が存亡の危機に瀕しています。その要因を一つに集約することはできず、またそうすべきでもありませんが、総じて経済活動の荒波に晒され、現代人との接点をうまく持てていない問題は確かに存在します。地域文化商社うなぎの寝床は、こうした現状を分析し、打開する事業を創造しました。すなわち、文化が息づく土壌や担い手を丹念に調査し、その個性や魅力を正しく解釈したうえで、担い手に次代へ受け継ぐ意志がある場合は、共にその方法を模索、実践することで、現代の経済循環の中で必要な利益を地域文化に還元するというもの。極めて明快なメカニズムでありながら、その結論へ達するまでの深い知見と思索は、同社のWebページや出版物から窺い知ることができます。
壮麗な白壁と深い陰影を纏う材木、そして多彩な様式の古建築が連なる八女福島にあって、うなぎの寝床は数軒のショップを営んでいます。いずれも旧商家をリノベーションした物件で、瀟洒なデザインは街並みによく調和しているもの。そのうちの一つ、“旧寺崎邸”はいわば“旗艦店”に位置づけられ、雑貨、食材、アート、さらには“器”など、九州の誇る地域文化が結集。どこか軽妙洒脱な魅せ方も相まって、ついつい身をかがめ、手に取り、にっこりと気持ちも綻びるアイテムばかりです。
一方、“旧丸林本家”は“久留米絣”(くるめかすり)を主とする繊維品、衣類を専門とします。久留米絣とは、筑後(ちくご 現在の福岡県南部)地方に伝わる綿織物で、国の重要無形文化財にも指定されている工芸品です。綿糸を先に染めあげてから自在に織り込むことで、微妙な“ズレ”を敢えて生み出し、幽かな、しかし豊かな紋様に仕上げることが魅力。うなぎの寝床では、これを“現代風MONPE”としてプロデュースし、柔軟で丈夫な普段着としての可能性を提示します。現代風MONPEは、うなぎの寝床が生み出す一貫したブランドで、今日では久留米絣以外の繊維工芸技術とコラボレーションしています。
一連のショップでの見聞を振り返り、またうなぎの寝床が手掛ける九州のトラベルガイド『UNA』シリーズを読むと、あまりに豊富で、上質な文化が九州という土地に存在している事実に胸を打たれます。同時に、それらの文化を知り、理解し、“魅力”として捉えるか否かは“買い手”である自分たち次第。うなぎの寝床は、その選択を買い手に委ねることで、文化が“伝統”や“歴史”に凝り固まるのではなく、時代に応じた新たな可能性を拓くことを期待しているといいます。
“よいもの”“好きなこと”“魅力ある土地”……誰しもが持ち得るこの当たり前の価値観の根底には、“なぜその結果に行き着くのか?”“どのような人の想いが込められているのか?”というたくさんの“必然”があるはずです。歴史や風土、人の営みもすべてこの必然の表象であるとするならば、どんなに小さな“もの”も“こと”も、無限の必然の掛け算の末にいま自分の目の前にある。その奇跡がもたらす感動の、そこはかとない大きさは、人生そのものの肯定と信じて止みません。
アクセス:八女ICから車で5分ほど
※うなぎの寝床の店舗は、福岡市や愛媛県大洲市にもあります。
ひとり旅おすすめ度:★★★★(人はいるけど少なめ。静かに観光できる!)
探訪日:12月第3週平日17時ごろ
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【星野村】
(福岡県八女市 旧国名:筑後)
<山嶺の内に秘められた歴史と営みの記憶 その結晶は神秘的な伝説と共に顕現します>
上古の史書や物語に記された九州すなわち“筑紫”(つくし)の、文化あるいは景観の系譜は、筑後国(ちくご 現在の福岡県南部)に最も色濃く受け継がれたと考えられます。その一つの根拠に、かつての統治機関である筑紫国造が後の筑後国域に設けられたことが挙げられますが、日本史の教科書において、筑後国造と実質的にイコールで結ばれるのが“磐井”(いわい ?~528)です。古代日本における最大規模の内戦、“磐井の乱”の首謀者である彼は、現在の八女市(やめ)近在を本拠地にしたと推定され、その陵墓である岩戸山古墳も市内に現存。日本はおろか東アジア世界において一定の存在感を誇った磐井と彼の領国は、その機構が滅んだ後も変わらぬ地理条件によって、特有の文化を地域に根づかせました。
蒼然とした美しい山並みの連なる八女市において、ひときわ芳しい文化の香りを漂わせるのが“星野村”の地域です。八女の中心市街地“福島”から20㎞ほど東へ位置する星野村は、かつて単一の自治体でしたが、近年の合併により八女市へ編入。今日では周辺地域と共に“奥八女”の一部を担い、全国的にも名高い“八女茶”の一大生産地です。そもそも八女茶は、室町時代に栽培が始まったという茶で、いわゆる“玉露”のブランドとして知られます。寒暖差が激しい山あいの気候、霧の発生する谷あいの気象条件によって、旨みのぐっと閉じ込められた茶葉は、その深い味わいが大いに好まれ、近代以降の本格的な栽培によって筑後地方を代表する特産品に成長しました。八女市星野村では、こうした八女茶の魅力を知り、触れ合える“茶の文化館”(写真2~4枚目)が設立され、館内では“しずく茶”の体験も可能。温度の異なるお湯で3回お茶を味わった後に、酢醤油で茶葉自体を食する独特の方法は、星野村において考案されたと伝わります。茶を極限にまで味わうしずく茶の存在自体が、八女のただならぬ文化を体現しているよう。村内には他にも茶の魅力を表現する店舗が多く、伝統的な技法と産品に、清新なアイディアが加わる様を見て取ることができます。(パティスリー“Kashi Kichi 星の村”など。 写真5~8枚目)
一方、平野部とは一線を画す“山の領域”の陰影の濃さは、侵しがたい秘匿性を湛えます。その象徴的な存在となるのが“古陶星野焼展示館”(写真1、9〜10枚目)。星野焼とは、かつて久留米藩(くるめ)の御用窯として継承された陶窯で、茶の栽培が盛んな八女の風土を映し、主に茶道具を製陶していました。しかし、明治時代に入って廃藩置県が断行されると、後ろ盾を喪って急速に衰退。ついに廃絶の憂き目を見ます。ところが廃絶から80年ほどを経た1968年、鳥取県出身の陶芸家山本源太さん(1942〜)が、修行先の小石原(こいしわら )で偶然目にした星野焼、そして星野村の美しい自然環境に惹かれて移り住み開窯。さらに、村民の力を借りて地道な土質の調査、遺構や史料の探査を敢行し、幾度もの実験を繰り返した結果、ついに星野焼の再興を成し遂げます。その偉業は大いに注目を集め、新たな作家も続々と開窯。これら古今の星野焼の魅力を紹介するギャラリーが、古陶星野焼展示館です。
その見どころは、陶器を“魅せる”ための工夫が盛り込まれた空間デザイン。“星”型の構造に窯の煙突を模した塔が立つ外観に奇異な印象を抱きながら館内へ入ると、従前の山村の風景とは一転、さながら“神殿”のような荘厳な空間が広がります。中央には清冽は水が湛えられ、硬質な石のオブジェが緊張感をいっそう引き立てます。そして周囲の回廊と壁面には数々の星野焼が収められ、物言わぬ姿でありながらその存在感が深く心へ訴えかけてくるというもの。ゆっくりと一巡してその美しさに打たれ休んでいると、不意に眼前の水面にはらはらと注ぐものが。それが幽かな粉雪だと気づき天井を見上げると、塔は天空へ吹き抜けとなっており、自然の事象が直接的に通貫する仕組みとなっています。そのあまりに幻想的な明暗の移ろいを目の当たりにして想うのは、星野焼に伝わる釉薬、“夕日釉”。茶を入れると金色に輝き、手の内で夕日のように色づくと伝わります。その数奇な伝説と歴史を顧みるに、復興の奇跡はさながら天の啓示だったようにも思われ、神秘性にいっそうの魅力を感じずにはいられませんでした。
アクセス:八女ICから車で50分ほど(古陶星野焼展示館まで)
ひとり旅おすすめ度:★★★★★(心ゆくまで観光できる。ほぼ貸切!)
探訪日:12月第3週平日16時ごろ
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筑後川から世界へダイレクト・アタック! うきは市吉井【RIVER WILD】ではなきん🍺
“筑紫(つくし)二郎”の異名をとる九州最大の河川、筑後川(ちくごがわ)。阿蘇山中に源を発し、山嶺を経廻った末に筑紫平野へ放たれ、滔々と、気ままに流れ下って有明海へ注ぎ入ります。その圧巻の規模と清冽な水質は、北部九州の風土、文化、そして経済にも大きな影響を与え、今日の豊かさの基となりました。筑後川の流域にはものと人の流れが絶え間なく続き、必然的に街道や宿場が発展します。現在の大分県日田市(ひた)と福岡県久留米市(くるめ)を結んだ豊後街道(ぶんご 現在の大分県南部 日田街道とも)もその一つで、とりわけ筑後川が一挙にその川幅を広げる辺りに立地する吉井町は、街道筋の主要な宿場に数えられます。富貴を誇った商人たちに牽引された町は、今なお白壁の連なる美しい景観を留め、筑後(ちくご 現在の福岡県南部)地域の観光資源として知られています。
吉井のいわゆる“白壁の町並み”では、ゆかしい古民家をリノベーションした飲食店も見られますが、敢えて間道を北へ抜けると、悠然とした筑後川の流れにぶつかります。この何とものどかな光景を見るにつけても、まさか世界最高峰の“ハム・ファクトリー”が立地しているとはにわかに想像が尽きません。
その名は“RIVER WILD”。
かろうじて探し当てた看板を目印に河畔を歩けば、砂利道の先に突如として瀟洒な建築が。恐る恐るドアを開けると、目の前の色彩は一転。心地よい暖色を基調として、シンプルでありながら洗練されたデザインと、数々のロックスターの肖像が掲げられた異空間に包まれます。何より、目の前のショーケースには端から端までめいっぱいのベーコンやソーセージが。ヨーロッパのマーケットすら想起させるその光景が、筑後川の川べりでひっそりと広がることに驚きを禁じ得ません。
稀なる期待感を沸き立たせながら、オーダーしたのは“ホットドッグ”と“ハム&ソーセージ盛り合わせ”。はじめにホットドッグは、硬質なパンに絶妙なバランスでソーセージが挟まれ、ほのかな香りと塩味が食欲へダイレクトに訴えかけます。崩れないよう、はみ出さないよう慎重にかぶりつくと、その弾力に仰天! 特別な味付けがあるわけではないのに、“中央突破”してくる肉の旨みがこれでもかと感じられます。パンが醸す小麦の風味がお肉の後の口直しとなるため、一口ごとに新鮮な気持ちで味わうことができるようです。さらにハム&ソーセージ盛り合わせは、星型の大胆な造形の器へ巧みに盛り合された一品。慎重に選りながら食べ比べていくと、一言にソーセージと表しても、その持ち味や魅力がまるで違うことに気づきます。旨みの後に染み出してくる甘味や、敢えて柔らかい食感に整えることで落ち着きをもたらす効果など、細やかな計算がなされていることに感動。そしてお待ちかねのビールと合わせたら、また新たな味覚のステージに没入。ここまでビールをおいしく味わえるお店も、にわかには類例が見つかりません。
販売しているソーセージなどは限定生産のメニューもあり、何を味わい、手に入れられるかはその日のお楽しみ。ただいずれもがこだわりぬいた一品であるうえ、地元の農作物を飼料に用いるなど、“循環型の地産地消”によって大切に育てられています。とっておきのギフトにもぴったりで、わけても「キングベーコン」は国際ハム・ソーセージ世界大会で金賞に輝いた実績を持つ人気商品。感動冷めやらぬまま、友人のお祝い事用に即座に注文してしまいました。お店へ出るとまた見慣れた河畔の光景に戻り、先ほどまでの熱く烈しい体験が嘘のよう。この著しいギャップを反芻するにつれ、RIVER WILDという店名が、これ以外に言いようのない端的な魅力を備えていることに深く共感しました。
アクセス:朝倉ICから車で15分ほど
メニュー例:ホットドッグ(600円)、ハム&ソーセージ盛り合わせ(2人前 1,000円)、ハートランドビール(500円)
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【筑後吉井】
(福岡県うきは市 旧国名:筑後)
<物流と水運を司った“吉井銀”の宿場町 美しい白壁の街並みが魅力です>
江戸時代の筑後国(ちくご 現在の福岡県南部)は、久留米藩(くるめ)と柳川藩(やながわ)が二分し、両藩はそれぞれ筑後川の中流、下流に城下町を開発しました。豊かな穀倉地帯と水運を掌握したことで、大河の恩恵と災厄を共に受けながらも、比較的安定した治世を展開します。わけても久留米藩有馬家は21万石を領する有力外様大名として勢威を張り、城下には四方から街道が開通。その中の一つ、豊後街道(ぶんご 現在の大分県南部)は、久留米と豊後国の天領日田(ひた)を結びました(豊後に通じる他の街道と区別するため日田街道とも呼ばれる)。古来豊かな山林資源を保った日田は、良質な材木の供給源として九州一円の経済循環に大きく影響した土地です。木材は筏に組み上げられて筑後川を下り、それらのものと人の流れは流域の発展を促しました。
吉井町は、豊筑国境の山峡を抜けた筑後川が、ようやく平野へ解き放たれる地点に立地します。筑後川の流路と沿うように豊後街道の宿場が連なり、流通経済の発展とともに殷賑を極めました。特に、宿場町と筑後川の間に運河を掘削したことで、水運の利便性は飛躍的に向上。酒や蝋などの名産品が集積する一大拠点として繁栄します。これら地域経済の担い手となった商人たちは、“吉井銀”(よしいがね)と通称されるほどの富力を保ち、豪壮な蔵屋敷を建てて力強く地域を牽引します。近代に入ってもその影響は保たれ、1882年には“吉井銀行”が設立。これは地方の小都市の中ではいち早い動きで、当時の財界における吉井の高い地位を証します。
一方、吉井は度重なる災害にも見舞われました。とりわけ火災の頻度が高く、18世紀の中頃に2回、明治に入った直後の1869年とそれぞれ大火により甚大な被害を受けています。このため、商品たちは耐火性の強い白壁造りの屋敷をこぞって建て、てました。“富”と“火”という正負の力学のよって生じた美しい白壁の街並みは、今は観光資源として人々を魅了します。
筑後吉井駅を北へ出て巨勢川を渡ると、にわかに国道210号線が開け、多くの車やトラックが行き交います。この210号線こそかつての豊後街道で、現在の賑わいを目の当たりにしては、古今変わらぬ要路であることを実感。210号線に沿う家並みにも木造建築が多く、必ずしも古い時代のものでなくとも、町全体で景観を整備しようという意気を見て取れます。街道を渡り筑後川の河畔へ向かい、観光案内所である“土蔵”(写真1枚目)を経てかつての吉井町の中心街へ入り込むと、白壁の連なる街路には運河のせせらぎが楚々と響きます。その中にあって、今日、吉井町の見どころとして代表的なものが“居蔵の館”(写真4〜6枚目)。これは製蝋業で大いに栄えた豪商松田家の旧家で、蔵屋敷の代表的な様式を示します。骨組みの堅牢さと細やかな意匠の取り合わせが圧倒的で、この大きなスケールが吉井の“典型”であることに驚きを禁じ得ません。同じく明治期の建築である鏡田屋敷(写真7~10枚目)では、2階の開放的な空間設計が印象的。緊密な瓦葺きの屋根を基調としつつ、楼閣を想わせるデザインが指す先には筑後の蒼い山並みが望まれ、その典雅な趣はいっそう土地の魅力を際立たせます。
近年の吉井では、こうした歴史的遺産をリノベーションして現代的な商店、飲食店が誕生する事例も多く、古き宿場町には新たな彩りが添えられています。街歩きを楽しんだ後でその魅力を顧みるに、雄大で伸びやかな自然に抱かれた人々の生活と叡智へしめやかな敬意と感動を抱きました。
アクセス:筑後吉井駅から徒歩で10分ほど(居蔵の館まで)
ひとり旅おすすめ度:★★★★★(心ゆくまで観光できる。ほぼ貸切!)
探訪日:12月第3週平日14時ごろ
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【柳川城下町(②文学の夢路)】
(福岡県柳川市 旧国名:筑後)
<静穏な城下町に培われた“文学の母体” 美しい点景の数々に豊かな詩情を見出します>
福岡県南部の主要都市の一つ、柳川市(やながわ)では、柳川城跡を中心に水路が張り巡らされ、“どんこ舟”がゆったりと水面を渡るのどかな光景が見られます。今やそのノスタルジックな趣は観光資源としても注目を浴び、四季の伸びやかな移ろいが多くの人の心を癒してきました。この光景にいっそうの深みを与えるのが、この地に育まれた文学や芸術で、なかでも大正、昭和に活躍した詩人、北原白秋(きたはら はくしゅう 1885~1942)は柳川を象徴する存在として知られます。
白秋が生まれたのは城下町の西部にあたる沖端(おきのはた)。その名の示す通り、有明海へ注ぎ入る水流を誘い込んだ入江で、今なお有明海を漁場とする多くの船が舫います。入江の端には魚介類を商う老舗鮮魚店が賑わい、古より城下町の物流の拠点として繁栄した歴史を見て取ることができます。白秋が生まれたのもこうした海産物問屋の一つで、当時は造り酒屋としても財を成し、柳川有数の商家に数えられました。白秋は経済的に恵まれた環境で当時勃興していた浪漫的な文学、詩歌に親しみ、自らの詞藻を育みますが、1901年3月、折からの大風に煽られて沖端一帯に大火がおこり、白秋の生家も母屋を残して全焼。白秋を巡る環境も一変しました。しかし白秋は家産を失った生家から目を背けるように、ますます文学の世界へ没入。ついには家族の猛反対を振り切って上京すると、早稲田大学英文学科予科に入学し、そこで多くの学友を得て詩作に励みました。やがて新鋭の詩人としてつとに注目を集めますが、白秋の過誤を原因とした女性スキャンダルにより文名は失墜。失意のうちに三浦半島の南端に位置する三崎へ転居し、雌伏の時を送ります。
その後も家族の事業失敗、妻との離婚など、波乱と騒擾にまみれた生涯を送る白秋でしたが、1918年に神奈川県西部の都市、小田原(おだわら)へ転居。温暖な気候と静穏な環境の中に身を置いた白秋は、鈴木三重吉(すずき みえきち 1882~1936)の創刊した児童文学詩『赤い鳥』誌上で詩や童謡を発表。新たな文学の境地を拓き、小田原在住時代に500以上もの作品を手掛けたと伝わります。その後、小規模な浮沈を繰り返しながらも文壇の地位は揺るがず、今日、白秋の名は、日本を代表する童謡作家、詩人として、その作品と共に人口に膾炙しています。
白秋の生まれ育った柳川市沖端町には、復元された白秋の生家と“北原白秋記念館”(写真1~5枚目)が建ちます。生家では、なまこ壁が象る緊密な外観と、深い陰影と開放感が両立する内観のコントラストが印象的。白秋の子ども部屋や書斎なども残り、その人の息遣いまで立ち込めているようです。
柳川市内には白秋や童謡に関連するスポットも多く存在します。狭小な“江戸小路”を抜けた先にひっそりと佇む“江戸小路 すずめの時間”(写真6~9枚目)もその一つ。江戸時代の武家屋敷を改装して開かれた本屋兼ブックカフェで、白秋をはじめとする童謡作品、柳川にゆかりの深い文学作品を購入、閲覧できます。昔懐かしい絵本を数冊手に取り、庭に面した椅子へ腰掛けると、やわらかい木漏れ日が温もりを伴って注ぎ入り、周囲に吊るされている柳川の雛飾り“さげもん”がほんのりと色づきます。その優しさに満ちた空間で絵本のページをめくれば“あぁ、そうだここでこういう台詞があったなぁ”と、楽しさと懐かしさに、心がすっかり伸びやかになるというもの。
白秋は故郷に複雑な愛憎を抱きながらも、柳川を“我詩歌の母体”と言い表し、最晩年の傑作“帰去来”においてその情景を歌い上げています。
“山門は我が産土 雲騰る南風のまほら、 飛ばまし今一度、 筑紫よかく呼べへば 戀ほしよ潮の落差、 火照沁む夕日の潟……”
往古九州を指し、柳川の属する筑後国(ちくご 現在の福岡県南部)が最も色濃く継承した地名“筑紫”(つくし)に象徴されるように、この地に生まれ育った芸術家たちは、総じてその美しい情景を己の心事に灯し、高らかに表現しました。白秋はその代表的存在であり、柳川の情景に彼の詩句の一つ一つを当てはめて歩けば、自ずからその詩情に接し、深い共感を寄せることができるに違いありません。
アクセス:西鉄柳川駅からバスで12分ほど(北原白秋生家・記念館まで)
ひとり旅おすすめ度:★★★★(人はいるけど少なめ。静かに観光できる!)
探訪日:12月第3週土曜日12時ごろ
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【柳川城下町(①安らぎの水路)】(福岡県柳川市 旧国名:筑後)
<“水郷”の名を冠する典雅な城下町 伸びやかな四季の移ろいを湛えます>
筑紫(つくし)という地名は、上古広義において九州全土を指し、やがて九州が“豊”“肥”などの国へ分かれると、主に現在の福岡県へ継承されました。この地名の由来について、一説には(近畿から見て?)陸地の“尽きる”という意味とも、大宰府(だざいふ)へ続く官道が“石”を“築”いてできていた史実から転用したとも伝わり、定かではありません。しかし、律令制の整えられるより前に生まれた地名が、今日でも地域に深く根づいている事実を思い合わせるに、その歴史的経緯に加え、“筑紫”という語の持つ文学的あるいは絵画的な印象が作用していることは間違いないことと思います。
現在の福岡県南部にあたる筑後国(ちくご)は、往古の“筑紫”のイメージを最も色濃く受け継ぐ地域と考えられます。これは古代の統治者である“筑紫国造”の本領が後の筑後国域に置かれた史実以外に、耳納連山(みのう)の山容と筑後川の水流など、九州随一の平野を巡る自然の淡く伸びやかな趣が、“筑紫”の大きさと優しさを連想させるからです。また、筑後に生まれた人物や芸術の色彩もその想像を裏づけます。
柳川(やながわ 歴史上は“柳河”と表記されることも)は、中世から現代にかけて繁栄してきた筑後国の主要都市の一つです。血管のように細やかな水路の巡る筑後川下流域に位置し、豊かな水資源と、有明海に隣り合う地理条件を背景に、政略上の要衝として発展しました。中世には、北部九州の覇者大友宗麟(おおとも そうりん 1530〜1587 現在の大分県を本拠に勢力を拡大。キリシタン大名としても有名)の影響下で蒲池氏(かまち)が活躍しますが、龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ 1529〜1584 肥前国佐賀城主。九州西北部の雄)のために謀殺されると、大友氏をはじめとする大勢力の係争の地となります。豊臣秀吉の九州征伐後は、大友氏の部将立花宗茂(たちばな むねしげ 1567〜1643)が柳川を領しますが、関ヶ原の戦いで西軍についたため改易。後には田中吉政(たなか よしまさ 1548〜1609)が入封し、柳川藩が成立します。ところが田中家が1620年に無嗣断絶すると、立花宗茂が返り咲き、以降明治維新まで立花氏が襲封します。宗茂の波乱に満ちた生涯と武勇、誠実な人柄は、“戦国武将”の数少ない生き残りとして泰平の世においても脚光を浴び、一度は徳川家と敵対していながら、晩年は将軍から戦時の教えを請われるまでに信頼されたと伝わります。今日においてもその遺風は柳川の城下町に息づき、“立花家史料館”などでその足跡を知ることができます。
今日、柳川は福岡県有数の観光地としても知られます。なかでも田中吉政による柳川城の築城時に設けられた無数の水掘を巡る、“川下り”はその象徴。スマートな舳先の“どんこ舟”に揺られ、柳並木の下の水路を船唄と共に渡る情景は、何とも情趣深いものです。
川下りのゴールの一つでもある“御花”(おはな 写真1、3~10枚目)は、維新後に伯爵となった立花氏の邸宅。藩政時代の別邸に由来し、豪壮で開放感抜群の大広間から望む“松濤園”の景観が一番の見どころ。黒松の象る涼やかな佇まいのなか、園池には鷺や鴨といった水鳥が思い思いに楽しみ、何とも雅やかな光景が広がります。邸内に目を移せば、柳川の雛の節句の代名詞である“さげもん”が空間を彩り、春の爛漫たる賑わいを彷彿とさせるもの。巨細に渡るこの意匠は、筑後、ひいては筑紫の点景にほかならず、この地の湛える遥かな美景に想いを馳せることができます。
アクセス:西鉄柳川駅からバスで15分ほど(御花まで)
ひとり旅おすすめ度:★★★(人はそれなりにいるが、広い場所なので気にならない)
探訪日:12月第3週土曜日11時ごろ
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【大川 家具の聖地】
(福岡県大川市 旧国名:筑後)
<筑後川の恵みを活かしたインテリア・シティ 確かな技術が唯一無二のブランドを築き上げます>
九州最大の大河である筑後川(ちくごがわ)は、阿蘇山中を淵源として、筑紫(つくし)平野に大きく弧を描きながら西流し、やがて福岡県南部で有明海に注ぎ入ります。その巨大な規模と、思うままに流域へ恩恵と災害をもたらす様から、全国有数の暴れ川として知られ、“筑紫二郎”の異名をとります。一方、豊かな水流は稲作発展の土壌をつくり、流域の産業や経済を活性化。北部九州の個性を象る幅広い要素の根拠となりました。
大川市は、筑後川の河口部に位置し、川を挟んで佐賀県との県境を構成します。最大限にまで膨れ上がった川幅の中にはいくつかの洲島ができあがり、緩やかな水流と潮の干満の条件を掛け合わせた、格好の河川港として発展。有明海を行き交う漁船や、筑後川流域の作物を運搬する船舶が集積します。とりわけ、現在の大分県日田市(ひた)などで切り出された多量の木材は、筏に組み上げられて大川へ流れ着き、当地に住む船大工によって加工されました。大川には、その地理的条件から古くから船大工が集住していましたが、室町時代に榎津久米之助(えのきづ くめのすけ 16世紀前半)という人物が船大工たちに指物の技術を伝えたことで、幅広い木材加工を手掛けるように。以来、大川では箪笥や仏壇といった家具を、庶民の需要に応えて生産。いつしか地域を代表する産業として広く認知され、全国一の家具生産高を誇るまでに成長しました。
いわゆる“大川家具”は、時代の要請に応じて優れた機能性、デザインの製品を生産してきた点が特筆されます。特に明治時代に発展した箪笥は、杉、桐などの木材を基調に、金や真鍮などの装飾、さらに漆塗り加工と、高い技術を誇る職人が分業して完成させることで、唯一無二の上質感を担保しました。現代にかけて木造家具の需要に陰りが見える中でも、新たに開発した“ネコ用家具”が大ヒット。伝統的な技術に拠りつつ、清新な空気を取り込んだ柔軟性により、いつまでも古びないブランドを確立したのです。
今日の大川市においても、その気風は濃厚に受け継がれています。2022年にOPENした“ARBOR”(アーバー 写真1〜5枚目)はその象徴。“つくる人をつくる森”とコンセプトとするギャラリー&ショップで、運営するのは大川をルーツとする建築設計会社“クレアプランニング”。木材を活かした空間設計のプロフェッショナルが手掛けただけに、そのデザイン性は抜群。店内へ入ってまず目につくのは、天井から吊るされた無数の木板。よく見ると、緩やかな曲線を描くよう繊細な加工がなされており、“森”の静けさと柔らかさを演出します。奥へ進むとショップスペースが登場し、スピーカーなどのインテリア、キャンプチェアなどのアウトドアグッズ、さらに知育玩具など、木材の持つ可能性の広さを目の当たりに。中央には原木や芝、苔などを巧みに共生させたモニュメントが存在感を放ち、森林に育まれ、川を渡り、人の手で生まれ変わる木の豊かな運命を示しているようです。
さらに、筑後川の畔にはコンテナを組み合わせたデザインが特徴の観光情報拠点“TERRAZZA”(テラッツァ 写真6〜7枚目)が、市街の中心部には大川家具の最大手“関家具”本社(写真8〜9枚目)などが建ち、洗練されたモデルルームで家具の魅力を発信しています。そのアイディアと積極性を目の当たりにすると、“インテリア・シティ”として常に日本人の生活に寄り添い続けた矜持が垣間見えるようです。
アクセス:大川東ICから車で1分ほど(ARBORまで)
ひとり旅おすすめ度:★★★(人はそれなりにいるが、広い場所なので気にならない)
探訪日:12月第3週土曜日14時ごろ
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