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【足利・太田のアートスポット】
(栃木県足利市・群馬県太田市 旧国名:下野・上野)
<“両毛”を代表する二大都市の美術館 地域の特色とそこに生きた人々の想いを宿します>
南北朝時代の争乱の主役として知られる足利尊氏(あしかが たかうじ 1305〜1358)、新田義貞(にった よしさだ 1301〜1338)はいずれも源氏の流れを汲む武士で、その本領は渡良瀬川(わたらせがわ)を挟んで近接した“昔なじみ”でした。現在、栃木県足利市、群馬県太田市となった両氏の本領のうち、足利市は“足利学校”や機業に象徴される観光、文化都市として、一方の太田市は自動車メーカー「SUBARU」(前身の中島飛行機株式会社は太田市出身の中島知久平によって創業)を擁する産業都市として道を歩みました。それぞれの歴史、特性を活かして発展した足利市、太田市にはいずれも現地を訪れる目的となり得るアートスポットが存在しています。
① 栗田美術館(栃木県足利市 写真2〜5枚目)
足利の商家に生まれ、実業家、政治家として絶大な権勢を誇った栗田英夫(1912〜1996)は、若年の頃に古道具屋で偶然出会った小さな伊万里焼(いまりやき 伊万里は現在の佐賀県の地名。同県有田で焼かれた磁器が伊万里の港から出荷されたためこの名がついた)の器に魅了され、以来本業の傍らで稀なる情熱を注ぎ込み、古今東西の逸品を収集しました。その数は1万点に及び、しかも伊万里焼と鍋島焼(なべしまやき 佐賀藩鍋島家直営の窯で焼かれた磁器。贈答用の高級品として知られた)だけに絞り込んだコレクションは、古来類を見ない内容です。栗田はこれらの魅力を広く発信するため、故郷足利で約3万坪の敷地を買い取って美術館を設立。蒼然とした山並みに抱かれる景勝の地に、シャープな建築と庭園を馴染ませた“栗田美術館”が誕生します。美術館は“本館”“歴史館”“陶磁会館”などいくつかの施設に分かれ、それぞれ器の配置や照明の強度まで徹底的に研究された落ち着きのある空間。とりわけ他では目にすることの少なかった鍋島焼は、絵柄の優美さと繊細さが見事に調和し、ふくよかな質感を自ずと醸すような趣き。どんなに小さな器であろうと、その世界観に魅了されてしまいます。ちなみに、1986年には世界的ロックバンド「QUEEN」のボーカル、フレディ・マーキュリーもプライベートで来館。展示に強く感動し、器の買い取りを希望したとも伝わります。往古、海外貿易の重要な輸出品として世界の注目を集めた器の、時代を超越した魅力を遺憾なく伝える事実です。
アクセス:あしかがフラワーパーク駅から徒歩10分ほど
② 太田市美術館・図書館(群馬県太田市 写真1、6~10枚目)
“創造的太田人”―――
群馬県太田市が“太田市美術館・図書館”の理念として掲げるこの言葉は、“ものづくりのまち”の歴史と未来を見据え、その矜持を示した内容です。群馬県内では高崎市、前橋市に次ぐ人口を抱える太田市は、世界的自動車メーカー「SUBARU」とその関連企業を中心とする大規模な工業団地を形成し、北関東で一位、全国でも有数の製品等出荷額を誇ります。一方、その産業構造は“郊外型”の都市基盤を生むこととなり、中心市街地の衰退が深刻化しました。この課題に対処し、且つ地域住民の生活に資する拠点となったのが、太田市美術館・図書館です。現代美術を中心に企画展を催す美術館と、世界各国の絵本やアートブックも揃う図書館を、敢えて境界を設けず一つの施設内に並立したことで、さまざまな角度から利用者の感性へ訴えかけます。深い質感の白を基調とした館内には、遊び心溢れるカラー、形状のインテリアが心地よい刺激として配され、それらを淡く染め上げる陽光は、外壁を思い切って開いた大規模なガラス窓から取り入れられるもの。シャープでありながら、螺旋状の構造で内部へ“巻き込む”ような建築デザインも特長で、そのゴールである屋上には“箱庭”を想起させる緑地が。鋭い風に払われた晴れやかな展望を堪能しながら、館内の光景を思い返すと、美術鑑賞、絵本の読み聞かせ、テスト勉強、コーヒーブレイク……と市民の多彩な生活が凝集された“プラットフォーム”であることを実感できます。
アクセス:太田駅から徒歩1分ほど
ひとり旅おすすめ度:★★★(人はそれなりにいるが、広い場所なので気にならない)
探訪日:10月第1週土曜14時ごろ
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【新田荘】(群馬県太田市 旧国名:上野)
<歴史に名高い新田一族の“その後” 数奇な運命に歴史の面白みが凝集されます>
鎌倉幕府に仕える御家人として、代々上野国(こうずけ 現在の群馬県)新田荘(にったのしょう)を治めた新田氏は、所領の隣接する足利(あしかが)氏とともに、源氏の系譜に連なる名門です。しかし、鎌倉幕府は執権の北条氏(ほうじょう)が壟断し、源氏の一門は一定の敬意を払われながらも中枢から遠ざけられていました。14世紀前半、後醍醐天皇(ごだいごてんのう 1288〜1339)によって討幕が企図されると、当時の新田氏当主であった義貞(よしさだ 1301〜1338)はこれに加担。かねてより高圧的だった北条氏の吏僚を殺害し、挙兵に及びます。当初は新田一族のみの寡勢に過ぎませんでしたが、その積極的な攻勢が功を奏し、各地より続々と味方が参集。勢いづいた義貞は一気に鎌倉へ駆け下り、ついに幕府と北条氏を滅ぼす大功を打ち立てました。続く建武政権では後醍醐天皇の信任を得て、一族と共に要職を歴任。やがて足利尊氏(たかうじ 1305〜1358)が反旗を翻した後はいわゆる“南朝”の主力としてこれと争いますが、越前国(えちぜん 現在の福井県東部)で足利方の奇襲に遭って波乱の生涯を終えました。
南北朝の合一がなり、足利氏が将軍として武士の頂に在った室町時代には、新田一族は逼塞を余儀なくされます。一族のうち岩松氏は、新田荘近くの金山城を拠点に一定の勢力を張りますが、同族の横瀬氏の下剋上にも悩まされ、乱世を細々と渡り歩きました。ところが徳川氏の世になると、新田一族を巡る状況はにわかに転変します。実は、徳川氏は家康の父祖から新田氏の子孫を称し、自身の権威づけにも利用していました(新田荘には徳川郷が実在するが、家康の家系が新田一族だったか真偽は不明)。そのため、岩松氏は徳川将軍家から“同族”の特別扱いを受け、小領ながらも格式ある旗本として存続したのです。この時代の岩松氏は、収入(石高)に見合わない格式や儀礼が負担となって財政が逼迫したことから、奇妙な“副業”を始めます。それが今日に伝わる“新田猫絵”です。これは、岩松氏の当主自らが筆を取って描いたもので、ネズミ除けに効果があったのだとか。この絵は養蚕の盛んな上野国の民衆に根強い人気を誇り、やがてその評判は東日本を中心に広まって、幕末の開国後は生糸などの産品の“お護り”として海を渡ったとも伝わります。
“猫絵の殿様”として独特の地位を保った岩松氏ですが、江戸幕府が倒れるとその後ろ盾を喪失。しかし、先祖の義貞がかつて朝廷に尽くした史実や、“義貞の遺志を継ぐ”と称して結成した“新田勤王党”が戊辰戦争で功を挙げたことが評価され、男爵の位を授かります。明治時代に南朝が正統と認められた後に義貞は大いに顕彰されるなど、時代の為政者によって振り回されながらも、一族は唯一無二の存在として今日まで生き抜きました。
現在、群馬県太田市の一部となった新田荘には、“新田荘歴史資料館”が設けられ、新田一族と地域の歴史について詳しく解説されています(新田猫絵も所蔵するが、公開期間は限定される)。そのほか、資料館に隣接する世良田東照宮(せらだとうしょうぐう)、長楽寺(写真6〜8枚目)や金山山麓の大光院(写真2〜3枚目)では新田氏と徳川氏の深い関わりを見て取ることができます。
想えば、新田義貞が歴史の表舞台に在ったのはわずか5年ばかりに過ぎず、また彼と共に鎌倉へ駆け抜けた一族郎党のほとんどが戦乱の中に斃れ、故郷に帰ることはありませんでした。しかし、彼らの鮮烈な輝きの余光が数百年に渡って一族の前途を照らし続けたことは驚嘆すべき史実で、歴史の面白さと不可思議さを凝集したかのような存在にほかなりません。義貞が挙兵にあたって一族を集めた生品神社(いくしなじんじゃ 写真9〜10枚目)の参道前には、彼の銅像が建てられています。その姿態は鎌倉攻めの折、稲村ヶ崎(いなむらがさき)を渡渉すべく神に太刀を捧げた伝説の再現で、今や義貞の生涯を語る上で欠かせぬ場面です。遠くに野焼きの香りが漂う秋の夕暮れ、義貞の捧げ持つ太刀の先には紺青に暮れゆく空が広がり、白く澄んだ星の姿が。その光芒の美しさは、時代の理屈、歴史の解釈もまた昼夜の連環と大きな別は無く、周りの色彩の変化よって、そこに潜み続けていた存在がにわかに照らし出されるだけなのだと、新田一族の数奇な運命を通じて語りかけているようでした。
アクセス:世良田駅から徒歩20分ほど(新田荘歴史資料館まで)
ひとり旅おすすめ度:★★★★★(心ゆくまで観光できる。ほぼ貸切!)
探訪日:10月第1週日曜17時ごろ
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【新田金山城】(群馬県太田市 旧国名:上野)
<堅牢な石垣に覆われた関東戦国史の“台風の目” 混沌とした政争と合戦の面影を残します>
16世紀中盤の関東地方は、相模国(さがみ 現在の神奈川の大部分)小田原(おだわら)を本拠とする北条氏が急速に勢力を拡大し、室町幕府の旧来定めていた支配体制は崩壊の危機に瀕します。一方、北条氏に圧迫された旧勢力のうち、関東管領(かんとうかんれい 室町時代に東国を治めた鎌倉公方を補佐する役職)を世襲していた上杉氏は、家来筋にあたる長尾氏の領国、越後国(えちご 現在の新潟県)へ亡命。長尾氏当主の景虎(かげとら)に上杉の名跡を継がせ、北条氏の討伐を依頼します。この景虎こそ後の上杉謙信(1530~1578)で、彼は越後山脈を越えて関東へ攻撃を開始。対する北条氏は、当時婚姻関係にあり、上杉氏の宿敵でもあった甲斐国(かい 現在の山梨県)、信濃国(しなの 現在の長野県)の武田信玄(1521~1573)と結んでこれを迎撃しました。北条、上杉、武田という巨大勢力は合従連衡を繰り返しながら戦い、とりわけ上野国(こうずけ 現在の群馬県)は激しい争奪の舞台となります。この『三国志』さながらの史劇の迫力を伝える史跡が、現在の群馬県太田市に聳える“金山城”(かなやまじょう)です。
当初この城の主だった岩松氏は、南北朝時代に新田義貞(にった よしさだ 1301~1336)を輩出した新田氏の後裔を称する一族でした。ところが、家臣の筆頭格であった同族の横瀬成繁(よこせ なりしげ 1506~1578)が徐々に主家を凌ぐようになり、ついに岩松氏を放逐して金山城を簒奪。自ら新田氏宗家を称し、宗家に代々受け継がれてきた由良郷の地名を冠して“由良氏”と改めます。いわゆる下剋上によって金山城主となった成繁は、ちょうど越山を開始した上杉氏に従って北条氏と対立。さらに上杉氏を通じて京都の幕府将軍とも誼を深めるなど、上野国において抜きんでた存在感を放ちます。しかし、北条氏の攻勢が強まると上杉氏から離反して北条方へ転じるなど、大勢力のパワーバランスを見極めて絶妙な立ち回りを披露。極めつけは、北条、武田の関係が悪化した際、かつて自分が裏切った上杉氏と北条氏の間を取り持つ役割を担って両者の同盟を実現。結果、成繫の死後も、豊臣秀吉によって北条氏が滅ぼされるまで由良氏は金山城主の地位を保ち続けるのです。
下剋上によって城を乗っ取り、大勢力に対しては臆面もなく従属と離反を繰り返す成繫は、混沌とした関東戦国史を象徴するようで、そのしたたかさは“梟雄”の名すら似合うというもの。年表を詳らかに紐解くと、上野国における戦や同盟のきっかけには必ずといっていいほど成繫が絡んでおり、大勢力が彼を味方に取り込もうと苦心している様子も窺えます。そして彼の存在を際立たせていたのが、居城である金山城です。城跡からは太田市街地と広大な関東平野を一望でき、その立地の重要さは現在もよく理解できます。近年の調査によって遺構は丁寧に保存され、当時の関東では極めて珍しい“石垣造り”の城であることも判明しました。とりわけ大手虎口に復元された石垣と石畳は、整然、緊密として一種の美しさすら湛えるもの。一方で、石垣の裂け目からぐっと這い出して天高く伸びゆく巨木の生命力も圧巻。その光景からは、乱世を骨太に生き抜いた成繫の生涯と小勢力の矜持も連想されるようでした。
※城跡の見どころや地域の歴史は、山麓の“史跡金山城跡ガイダンス施設”(写真2〜3枚目 設計は隈研吾)で詳しく解説されており、登城の前に見学するのがおすすめです。
ひとり旅おすすめ度:★★★(人はそれなりにいるが、広い場所なので気にならない)
探訪日:10月第1週日曜11時ごろ
アクセス:太田駅から徒歩1時間10分ほど(史跡金山城跡ガイダンス施設まで。本丸まではさらに徒歩30分ほど)
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