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【那谷寺】(石川県小松市 旧国名:加賀)
<奇岩と信仰が織りなすダイナミックな景観 加賀国“石の系譜”の象徴的な存在です>
日本三名山の一つに数えられ、北陸地方一帯の自然、文化に大きな影響を及ぼした白山(はくさん)。とりわけ加賀国(かが 現在の石川県南部)には現在もその色合いが濃厚に残り、産業や芸術の高度な発展の素地となりました。山麓の諸地域では、杉材を中心とした森林資源を活用する“木”の文化の系譜が成立しましたが、もう一つ見逃せないのが主に現在の小松市域で受け継がれる“石の系譜”です。小松市を中心とする加賀国南部では、日本に文明社会の興る遥か前から金、銅などの鉱石、水晶や瑪瑙などの宝石を産出していました。遅くとも弥生時代にはこれらの玉石を加工する技術も培われ、古代の権力者の服飾や葬送品に用いられます。限られた知識と器具にも関わらず、石材を切り出し、研磨しては輝きを与える精巧な技術を2000年以上前の人々が有していたことは驚嘆すべき事実で、後の藩政時代に加賀国で工芸の精華が生まれる要因の一つとも思われます。
那谷寺(なたでら)は、白山信仰と“石の系譜”を掛け合わせた象徴と考えられる存在です。奈良時代に白山を開き、“越の大徳”として篤い崇敬を集めた泰澄(たいちょう 682〜767)の創建にかかる寺院を前身とし、平安時代に花山法皇(968〜1008 第65代天皇。藤原摂関家の政争に巻き込まれ退位出家の後、仏道修行を志して諸国を巡行。その足跡が後世“西国三十三所”になったと伝わる)が白山へ参拝した際、西国三十三所の一番“那”智山と三十三番“谷”汲山を合わせた寺名に改められたとされます。この由来も作用し、白山信仰ならびに真言密教の霊場として北陸道有数の寺格を誇りました。中世には戦乱によって大きく損害を被りますが、加賀藩第3代藩主の前田利常(まえだ としつね 1594〜1658)の後援によって復興を遂げ、本殿大悲閣、三重塔をはじめとする貴重な建築物を今日に伝えます。その特徴は、険しい岩壁に囲われた一つの“谷”を、そのまま寺域へと取り込んだかのようなダイナミックな景観。とりわけ“遊仙境”と呼ばれる奇岩の集合体は、地底に蠢く龍がとぐろを巻きながら出現したかのような絶大な迫力です。その中腹に赤い鳥居が建っていることからも、古来この奇岩自体が信仰の対象であったことを窺い知ることができます。
このように、雄渾な自然の景観が注目されがちな那谷寺ですが、参道を左に逸れた区域には、前田利常に由来する書院が現存します。苗木や苔が醸し出す爽やかな色合いの中に佇む建築は枯淡の風格を纏うもの。武家書院らしく簡素な印象で、庭園からの風が涼やかに吹き抜ける空間ながら、樹木の緑をしっかりと捉える“面”としての景観も処々に現れるなど、利常の非凡な美学を体現したかのような空間です。一方の庭園は小堀遠州(こぼり えんしゅう 1579〜1647 近江国〈おうみ 現在の滋賀県〉生まれの大名。古田織部に師事して茶の湯を極めたほか、和歌や作庭においても多くの業績を遺した)指導のもと、加賀藩作事奉行の分部卜斉によって設計されたもの。苔と飛び石を基調としつつ、境内の特異な地形の迫力を巧みに取り入れた、多様な見どころを示します。その光景は、白山を取り巻く自然信仰と人々の想い、そして洗練された武家文化の融合という、加賀国における何事かを深く暗示するものと思えてなりませんでした。
アクセス:小松ICから車で30分ほど
ひとり旅おすすめ度:★★★(人はそれなりにいるが、広い場所なので気にならない)
探訪日:7月第4週平日11時ごろ
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