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【鈴木大拙館】(石川県金沢市 旧国名:加賀)
<世界に広く自覚をもたらした“霊性”の拠りどころ 洗練された空間で多くの思索が行き交います>
加賀国(かが 現在の石川県南部)の厳しくも清澄な風土は、そこに住まう人々の心へ自然に対する畏れと信仰を根づかせ、数多くの“自覚”を生み出してきました。藩政期に至り、首府金沢では、この自覚が高度な工芸や遊芸、文学などの発展を誘発し、その影響は今日世界に誇る観光資源にも顕現しています。一方、これらの風土と文化を土壌に芽吹いたもう一つの系譜が哲学です。加賀そして金沢の歴史の結晶ともいえるこの学問の精華は、日本人の心の動きを慎重に、丹念に掬い上げ表現することで、広く世界へ昇華していきました。
『日本的霊性』『禅の思想』などの著書において、仏教と日本文化、思想との関わりを世界に紹介した鈴木大拙(すずき だいせつ 1870~1966 本名は貞太郎)は、加賀藩医の息子として金沢市本多町に生まれました。地元の第四高等学校に入学するも時日を経ず中退し上京、東京専門学校(現在の早稲田大学)や帝国大学(現在の東京大学)選科で哲学などを学びましたが、その人生の転機となったのが鎌倉円覚寺(えんがくじ)での参禅です。大拙が円覚寺を訪れたのは、東京専門学校入学直後である1891年の夏。当時、円覚寺の住持であった今北洪川(いまきた こうぜん 1816~1892)に禅の教導を願ったためでした。大拙から見て“至誠の人”だったという洪川の言行に鮮烈な印象を受けた大拙は、その夏を円覚寺に暮らし、洪川の遷化後も、法灯を継いだ釈宗演(しゃく そうえん 1860~1919)に私淑します。
宗演はその並外れた見識と行動力が高く評価された名僧で、円覚寺には道俗を問わず多彩な顔触れが参じていました(夏目漱石など)。さらに宗演は1893年シカゴで催された「万国宗教大会」に日本代表として出席するなど活躍の幅を広げていました。大拙は1897年から宗演の推薦で渡米し、現地の出版社に勤務。宗演の訪米の際にはその通訳を務め、国際社会の場で“禅”が鋭く感得される様を目の当たりにしました。さらに、宗演の講演の聴衆であったアメリカの大学院生ベアトリス・レーン(1878~1939)と親しみ、やがて来日したレーンと結婚。こうして大拙の周囲には、彼が広く世界と繋がる条件そして“自覚”が整ったのです。
大拙が世界へ向けて説いたキーワードの一つが“霊性”でした。霊性は“感性”“情性”“意欲”“知性”という人間の基本的な心の動きのいずれにも当てはまらない、対象物の持つ価値を、より直接的に心と結びつける“精神の奥に潜在しているはたらき”とされます。霊性は全ての人間が宿している感情の源ですが、各地域の風土や文化によってその内容に差異が生まれ、そのうち日本人が本能的に宿していた内容に、外来の仏教が作用して生まれたものを“日本的霊性”と定義しました。原初的な本能と後発の思想が接触し、感情の源を形成する過程は遍く人類に共通するもので、ここにおいて大拙と彼が蘊奥を究めた“禅”は、日本を起点に世界へ影響を与える存在として認知されます。
現在、大拙生誕の地に近い本多町3丁目には、彼の業績を顕彰する“鈴木大拙館”が建ちます。大拙の人生やその思想を紹介するばかりでなく、来館者それぞれが自らの思索を深めることを目的とした施設で、設計を担当したのは金沢にルーツを持つ建築家谷口吉生(たにぐち よしお 1937~)さん。観光施設が集中するエリアとは一線を画す静寂のなか、シンプルでありながら荘厳さも湛える“思索空間”の姿と、繊細な自然現象の在り様を“水鏡の庭”が映し出し、鋭角が巧みに組み交わされた空間デザインの意匠と合わせ、来館者の心へ安らぎと厳粛さを同時にもたらします。思索空間の内部は、禅寺における住持の居室である方丈をイメージしたデザインで、畳敷きの長椅子に腰かけると、水鏡の庭と背後の樹林を眺めながら、悠遠な心の動きを通わせられるよう。同時に、若き日の大拙の、円覚寺における心事を想像し、追体験することもできます。鈴木大拙館には、大拙や“ZEN”に関心を抱いた欧米の観光客も来訪し、その強い印象を発信したことで、今日では数多くの外国人観光客が日本における旅の目的地に定めているといいます。その事実自体が、大拙の説いた“霊性”の実在を証明しているように思われました。
アクセス:金沢駅からバスで25分ほど
ひとり旅おすすめ度:★★★(人はそれなりにいるが、広い場所なので気にならない)
探訪日:7月第4週平日11時ごろ
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【石川県立図書館】(石川県金沢市 旧国名:加賀)
<“遊環構造”に象られた文化のプラットフォーム 大胆なデザイン、清新なコンセプトが“知の探究”へと誘います>
国内有数の文化都市として、日本史の諸相に重要な示唆をもたらしてきた金沢。とりわけ工芸や建築の分野には特筆すべき事績が多く、親子二代に渡って日本の建築界を牽引した谷口吉郎(たにぐち よしろう 1904〜1979)、吉生(よしお 1937〜)さん親子の存在などに象徴されます。さらに、北陸新幹線の延伸決定を契機として、観光資源への注目度が高まると、“金沢駅 鼓門”に代表されるような名建築が続々と誕生します。藩政時代から連綿と受け継がれてきた工芸技術が多分に盛り込まれたこれらの建築は、文字通り“金沢の新時代”の顔となり、都市景観を象る役割を担いました。
これら新建築の中でも、近年大いに注目を集めているのが“石川県立図書館”です。もともとは1912年に兼六園の中へ建てられた図書館でしたが、拡張と移転のすえ市内本多町に立地した旧館の閉館に伴い、郊外の小立野(こだつの)で新館の建設が計画されます。その構想の中核には、新図書館を“課題解決型”の図書館とすることが据えられました。これは、従来の図書館が持っていた本の貸借機能に留まらず、利用者が“知の探究”を行うフィールドとなることを目指すもの。地域コミュニティや伝統文化とも融合した“文化のプラットフォーム”そのものでした。
この構想に応えたのが、建築家の仙田満(せんだ みつる 1942〜)さん。地域の生活に根ざした建築を基に、“環境デザイン”を手掛ける第一人者として知られます。その建築理論を象徴するキーワードが“遊環構造”。これは、仙田さんが公園の遊具やそこでの子どもの営みをヒントに提唱した理論で、人にとって“楽しさ”“心地よさ”を伴う空間を“回遊性”と結びつけたもの。つまり円環状の空間とそこに発生する営みは、安心とワクワクをもたらし、同時に“知の探究”を誘発するのです。
実際に現地を訪れてみて最初に目の当たりにするのが“ブックリウム”。膨大な数の所蔵図書にそれぞれの内容から相関関係を見出し、さらに銀河の運行になぞらえプラネタリウムのように表現したアートです。その美しさと清新さに驚かされるのはもちろんのこと、機器を操作すると、自身の興味に応じて銀河系を自由に行き交うことができる“提案型”の図書検索サービスの役割も担います。知の探究のスケールを視覚、聴覚へ直接訴えかけることで、子どもはもちろんのこと、大人までも高揚感を覚えずにはいられません。
受付を通り、“グレートホール”に立ってみれば、その規模感に圧倒されます。3階建ての書架が四囲に巡らされ、それらを縦横に空中回廊が結びつける様は、さきほどのブックリウムがもたらすスケールを立体化させたに等しく、近未来へ迷い込んだかのような錯覚さえ感じるもの。仙田さんの提唱する“遊環構造”が顕現していることに疑いはありませんが、階の傾斜や書架のデザインの統一感からして、本そのものが一つの生命を有し、彼らが集い論じ合う“議場”のような上質感も湛えます。その中にあって方位を示す旗が“加賀五彩”の色合いで敢然と掲げられ、探究をするうえでの指標となっています。感動の冷めやらぬまま旗の下に立ち、書架を具に観察すると、“子どもを育てる”“文学にふれる”“自分を表現する”“生き方に学ぶ”など目的や心理ごとに区分された12のテーマが設けられており、一般的な科学の枠に捉われない選書を可能としています。とりわけ最終テーマである“里の恵み・文化の香り~石川コレクション~”は、これまでに体感した石川県の豊穣な風土と文化を凝集したとも思われ、旅行者にとっても大変興味深いもの。風土という切り口で選書することで、あらゆる科学を横断的に捉え、土地の本質と魅力を提示しているようです。ふと我に返って周りの書架を見れば、老若男女を問わず多くの人が本を読み、内容を談じ、それぞれの探求へ没入している様がよく見て取れます。そして“知の探究”が決して終わりのない、かけがえのない魅力をもつ営みであることを改めて思い知らされました。
アクセス:金沢駅からバスで30分ほど
ひとり旅おすすめ度:★★★(人はそれなりにいるが、広い場所なので気にならない)
探訪日:10月第2週土曜日14時ごろ
※この投稿の写真の一部は友人から借用しました。
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レトロ×ロマン渦巻く異空間 金沢市片町【金沢中央味食街】ではなきん🍺
風情ある庭園や武家屋敷、茶屋街が魅力の金沢。その景観は江戸時代の様式を色濃く留め、寒冷で清冽なその風土と相まって、どこか格調高い印象をもたらします。その一方、都市の景況を支え続けた庶民の生活も深く根を下ろし、片町(かたまち)、香林坊(こうりんぼう)などは北陸有数の大繁華街として発展します。雑然として人間くさい、言わば観光地としての金沢のイメージとは対極にある雰囲気は、一見近寄り難くもありますが、勇気を奮って入り込んでみると、何とも魅惑的な雰囲気、味わいを体感できます。
“金沢中央味食街”の成立については、必ずしも詳らかではありません。片町の交差点から一つ路地へ入り、木倉町(きぐらまち)の殷賑を抜けた先に突如として現れるこの不思議な空間は、煌々と、しかし実に妖しく闇に浮かび、思わず立ちすくんでしまうような独特な趣。今日伝わるところによると、戦後、金沢市街に散見されたいわゆる“闇市”のうち、形態と場所を変え、最終的に香林坊界隈で終焉を迎えた屋台街の賑わいを懐かしんだ人々が、1960年代後半に設立したものだといいます。現在の店舗は、厳密には屋台ではないものの、その闊達とした雰囲気や雑然として込み入った人々の距離感は、屋台の魅力を存分に取り入れたもの。恐る恐る路地を分け入ると、暖簾と煙に遮られながらも、酔客たちの高揚感がそのまま伝わってくるようなお店ばかり。金沢の郷土料理を味わえる小料理屋から、店主の趣味や人柄が前面に押し出された個性派、さらに街路の雰囲気とはやや異質とも思われるワインバーまで、20軒あまりの店舗それぞれがしっかりと賑わい、地元に根差した人気店であることは一目瞭然です。
“焼肉NOBU”(写真2~5枚目)は味食街の中でもとりわけ目を引く小さな焼肉店。キッチンを囲んだL字型のカウンター8席で、その形態から“ひとり焼肉”であっても全く気になりません。地元のプロサッカーチーム“ツエーゲン金沢”のユニフォームやグッズ、さらに試合中継が店内を賑わせ、地域密着の様子がありありと見て取れます。メニューはシンプルでありながらバリエーション豊かで、一人から楽しめるセットがあるのも嬉しいポイント。せっかくなので“NOBUおまかせ三点盛り”(1,980円)のほか、一番の名物という“和牛炙りイチボ ユッケ風”(1,680円)をオーダー。三点盛りは、塩やバジルの爽やかな味付けが魅力の豚肉や、弾力とふくよかな風味を楽しめるホルモンなど、その日の仕入れに応じた内容でボリュームも味わいもぴったり。そして和牛炙りイチボは、さっと火にかけるだけでもOKという早業の一品で、その繊細な質感と旨みはなかなか味わったことのないもの。生卵のとろみとタレを纏わせれば、思わず感嘆の声がもれてしまうほどのおいしさです。一人客でも気にならないどころか、こうした空間だからこそ、じっくりと食事、お酒に向き合うことができ、この味食街設立の趣旨が濃厚に受け継がれていると感じるお店です。
〆に向かったのは“金沢の味 満月”(写真6~9枚目)。先述の焼肉 NOBUと比べてもさらに小さな5席ほどの小料理屋で、ノスタルジックな雰囲気に満ち溢れた小料理屋さんです。割烹着を着た女将さんと、同窓会帰りという常連さん数人が優しく迎え入れて下さり、金沢の町やグルメの話題に花が咲きます。北陸の旬菜の旨み、甘みを存分に引き出した野菜料理のほか、名物という“牛すじ煮込み”を地酒“天狗舞”と合わせれば、一日の終わりにふさわしい安心感がもたらされるもの。女将さんが語る中央味食街の歴史や、実見してきたさまざまな金沢の姿も大変興味深く、お料理、お酒のおいしさ以上に貴重で印象深いひと時を過ごせました。常連さんおすすめの小さなカレーライスを食べ終えた後、わざわざ見送りに出てくれた女将さん、常連さんと記念撮影をしてお別れ。一期一会の楽しさと切なさを抱えながら、幅広く、忘れ難い金沢の滋味を噛み締めました。
アクセス:片町バス停から徒歩5分ほど
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工芸文化×食文化の高度な融合! 金沢市木倉町【CRAFEAT】ではなきん🍻
北陸有数の大都市、金沢の繁華街は、金沢駅から2kmほど南へ下った片町(かたまち)、香林坊(こうりんぼう)エリア。いずれも金沢城の西方に開け、加賀藩(かが 現在の)の創立期から栄えた街区で、現代的な歓楽街の様相の中に、歴史ある建造物やその由来が散見されます。この2大繁華街から一本路地を入ると、狭小な街路に飲食店が集まり、湯気と香気が夜空に立ち昇る様を見るにつけても、高揚感がぞくぞくと増すというもの。とりわけ藩の材木蔵を中心に繁栄してきた木倉町(きぐらまち)には、地元の方御用達の名店が軒を連ね、ディープな魅力の飲み屋街が形成されています。
CRAFEAT(クラフィート)は、良い意味で雑多とした木倉町の街並みにあって、凛として洗練された佇まいが目を引く店舗です。こちらを運営するのは能登(のと 現在の石川県北部)半島は輪島市(わじま)で200年以上の歴史を誇る田谷(たや)漆器店。いわゆる“輪島塗”のメーカーの代表格で、数多くの職人たちと手を携えながら、漆器をプロデュース、販売しています。そんな老舗漆器店が飲食店舗の運営に踏み切ったのは、輪島塗が“伝統工芸品”としてその品格を高める一方、日用品としてのイメージが薄れてしまうことに危機感を覚えたためといいます。CRAFEATでは、田谷漆器店の手掛ける輪島塗を始め、旧加賀国に培われた工芸品の数々が卓上を彩り、数十万円にも及ぶという技術の精華も、日用の食器としての活躍ぶり。今日に伝統工芸として崇敬を集める食器でさえも、もともとは人々の営為から生じたものに過ぎず、しかしそれ故に長い時間を経てなお輝きを放ち続ける事実に、歴史の神秘が顕現するというもの。
店舗は2階建てとなっており、階を隔てて異なるコンセプトの飲食店が両立しています。階上の“CRAFEAT”は、完全事前予約制で、地産の食材を巧みに織り合わせたコース料理を展開。最高級の漆器や工芸がカウンターキッチンに並び、その静謐な趣が空間全体の階調を整えます。一方の階下“CRAFT”は、階上と異なりシンプルで明るく、カジュアルな佇まい。予約もマストではなく、価格もリーズナブルで、これまで伝統工芸と縁の持ちようが無かった、自分のような若輩者にも身近に感じられるラインナップです。例えば、今や金沢の名物として知られるおでんは“燻製たまご×トリュフオイル”、“モッツァレラチーズ×岩のり”など、シェフの創意が盛り込まれた“進化系”。刺激的、魅惑的な味わいを楽しむことができます。また、この日は幸いにもシェフの知り合いが県南部の山中で仕留めたという猪肉が入荷しており、特別にハンバーグプレートをご用意いただけました。ゴロっとした見た目のハンバーグに刃を入れると、旨みが白い泡となって肉汁と共にあふれ出し、それでいて全く臭みはなく、適度に締まった肉質と感触がその豊満なおいしさを引き立てます。付け合わせの野菜も加賀地方の特産で、九谷焼の器と共に、まさしく加賀のオールスターともいえる豪華な一皿でした。そして、これらの料理と合わせるお酒にもこだわりはたっぷり。県内の日本酒は特に豊富で、各酒蔵の特徴や料理との相性を教えてもらい、選ぶ楽しみは尽きません。何より、田谷漆器店の技術が詰まった漆器のお猪口の吸引力は圧巻。深く、艶やかに濃度を溜め込む烏色の木地のなか、日本酒のうすにごりを透かすのは、神秘的なエメラルドグリーン。その様子はまるで“青の洞窟”に通ずるもので、“宝物”という以外に形容のしようがない美しさです。漆器の中に突如として出現するこの“小宇宙”を通じて、工芸品を手に取り、口をつけて、紛れもなく“用いる”ことで得られる感動の大きさを体感できるのです。
アクセス:片町バス停から徒歩4分ほど
メニュー例:加賀蓮根の和風ピクルス(380円)、進化系おでん 燻製たまご×トリュフオイル(380円)、夢醸(一合 1,280円)
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【金沢城下町(④三文豪と文芸文化)】(石川県金沢市 旧国名:加賀)
<金沢の深き陰影が生んだ三人の文豪 故郷への愛憎が近代文学の傑作へ結実します>
日本有数の城下町として大がかりな盛衰を分かち、今日までその情趣を留める金沢。藩の積極的な文治政治や、加賀国(かが 現在の石川県南部)に受け継がれた木工や石工の技術を背景に、極めて高い文化水準を保ちました。長い歴史と湿潤な風土は街路に深く、特殊な陰影をもたらし、後世に“金沢の三文豪”と呼ばれた作家たちは、金沢の風土に深く根差した文学を生み出していきます。
① 徳田秋聲記念館(写真2枚目)
明治時代に入り、困苦を極める金沢藩士の子として生まれた徳田秋聲(とくだ しゅうせい 1871~1943)は、日本近代文学における自然主義の代表的作家として知られます。透徹した視線で人心と世情の動きを捉えた小説は、後年川端康成(かわばた やすなり 1899~1972)をして“日本の小説は源氏にはじまって西鶴に飛び、西鶴から秋聲に飛ぶ”と言わしめたほど。秋聲が幼少期を過ごした浅野川の畔には“徳田秋聲記念館”が建ち、秋聲の人生と、『黴』『あらくれ』など代表作の文学世界を解説しています。館内で年表に目を凝らしていると、興味を引かれたのは他の“三文豪”との関わり。とりわけ泉鏡花(いずみ きょうか 1873~1939 詳細後述)とは同じ小学校の出身であり、加えて尾崎紅葉(おざき こうよう 1868~1903 日本近代文学の黎明期を代表する作家で、言文一致を本格的に完成。『金色夜叉』などの傑作を残し、数多くの弟子を育てたが早世した)の門下生としてしのぎを削ったライバル。終生紅葉を崇敬していた鏡花と、紅葉に師事しながら、徐々にその作風から離れた秋聲とは微妙な懸隔を保ちました。衰退の一途を辿った金沢に宿る深い悲しみという同じ土壌に出発しながら、人の世の現実をひたすらに直視して文学に刻んだ秋聲と、妖艶な幻想に昇華させた鏡花の、文学観や人生観の違いはとても興味深い内容です。
② 泉鏡花記念館(写真3~7枚目)
金沢三文豪の一人にして、幻想・怪奇文学の大家として知られる泉鏡花は、彫金師の父と、太鼓師の家系に連なる母との間に生まれました(浅野川を挟んだ斜向かいが秋聲の生家)。鏡花の父は金沢の爛熟した工芸文化の担い手として活躍しましたが、母は鏡花が9歳の時に病死。このできごとは鏡花の人生に深い陰影をもたらし、後の鏡花文学に見られる母への憧憬、仏教的倫理といったテーマの基調となります。尾崎紅葉という生涯の良師を得た鏡花は、当初は講談調の小説を手がけましたが、1900年に『高野聖』を発表。暗夜の山中で繰り広げられる怪異譚は、凄絶な美しさを湛え、今日においても幻想文学の一大傑作として知られます。以来、『歌行燈』『天守物語』といった幻想的な作品を世に送り出し、晦渋でありながら“謡”を想わせるような文体も相まって、唯一無二の文学世界を創成しました。生家跡に建つ“泉鏡花記念館”では、文学の魅力にとどまらず、鏡花を愛する数多くの著名人による“読み方”の提唱、極度の潔癖症だったという鏡花の人柄など、人と文学の魅力にぐっと厚みを持たせる充実の展示を誇ります。
③ 室生犀星記念館(写真1、8~10枚目)
いま一人の金沢三文豪、室生犀星(むろう さいせい 1889~1962)の生涯は、その出生から深い陰影に包まれていました。加賀藩士の父と、彼に仕えた女中との私生児として誕生した犀星は、生後まもなく犀川(さいがわ “犀星”というペンネームの由来)の畔にある雨宝院へ預けられ、その養子に。金沢で職を転々とする間に目覚めた文才は俳句や詩に開花し、大正時代の世情とも巧みに調和し、浪漫的な作品で文壇の地位を確立します。草木や昆虫、野鳥といった身の回りの小さな命に目を向け、その輝きを称え愛した犀星の温かい眼差しは、今なお多くの人の心を打ちます。そして故郷金沢に対する想いも人一倍深く、故郷の風光や人物をテーマにした作品も少なくありません。なかでも有名なのが“ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの”
という「小景異情」の一節。望郷の詩として考えられがちなこの作品ですが、全体を通して読むと必ずしもそうではなく、自身を生み、育んだ金沢に対する深い情念と複雑な愛情が伺えます。生家跡に建つ“室生犀星記念館”では、犀星の愛した生命をモチーフにした展示などが魅力で、他の文豪の記念館と合わせ、金沢という土地に対して何か深く考えさせられる重要な示唆に富んでいます。
アクセス:いずれも金沢駅からバスで10分ほど
ひとり旅おすすめ度:★★★★★(心ゆくまで観光できる。ほぼ貸切!)
探訪日:6月第3週日曜12時ごろ
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【金沢城下町(③職人と工芸文化)】(石川県金沢市 旧国名:加賀)
<時を越えて輝きを放つ日本有数の工芸文化 加賀の風土と人心が育んだ技術の精華です>
前田氏による安定した治世のもと、武士や町人によって高度な文化が育まれた金沢では、武家町や茶屋街を核として経済が循環しました。とりわけ茶屋街では、お茶屋の設えや芸妓の服飾が巨細に渡って空間を彩り、職人たちは注文主の期待に応えるべく、技術や創意を競います。さらに加賀藩(かが 現在の石川県南部)は領内の殖産興業に努め、北前船を通じて産品を盛んに交易。加賀の“ブランド”は諸国にも知れ渡り、九谷焼(くたにやき)、金箔、加賀友禅、加賀山中や能登(のと 現在の石川県北部)輪島の漆器など、今日においても高い知名度を誇る工芸品が誕生します。この背景には、加賀藩や金沢の町人たちの尽力はもちろんのこと、霊峰白山(はくさん)を擁する加賀国一帯に、古来木工や石工に関する技術が培われていたことも見逃せません。
明治維新の後に加賀藩が廃されると、藩政と強い結びつきを持っていた産業、工芸は大きな打撃を被ります。城下町の人口は流出し、工芸品の需要も低下。多くの職人が経済的な苦境に陥り、長年培われた技術は廃絶の危機に瀕します。しかし、明治時代の中期以降、海外での万博などを契機として日本の工芸品に再び注目が集まると、金沢の工芸品には海外への輸出品という新たな面が付帯します。折しも金沢では旧制第四高等学校開校(1887年)、北陸本線の開通(1898年)、陸軍第九師団(1898年)など、経済、産業の発展を後押しする好況が続き、数々の工芸も新時代の中に生き残ります。戦後に文化振興の機運が高まると、“伝統工芸”のブランドとともに保護が図られました。しかし金沢の場合、単に伝統を保護するのではなく、作家を誘致、育成し、さらに伝統に囚われない新分野の工芸の発展にも力を尽くしました。とりわけ若手作家に対しては、制作環境の整備、経済的な支援を手掛けるばかりでなく、作品を発表する“場”と“機会”も積極的にプロデュース。金沢を通じて広い世界の眼差しを受けることで、技術の練度は高まり、創造性豊かな進化を遂げました。その成果もあり、2020年には“国立工芸館”が東京から金沢へ移転。名実ともに日本最先端の工芸都市の地位を確立し、現在も多くの作家が制作に励んでいます。
こうした工芸の実態と魅力に触れるスポットは市内に数多くありますが、金箔の老舗として知られる“箔一”の本店“箔巧館”(写真2~6枚目)はその代表格。今や全国シェアの98%を占める金沢の金箔の歴史や魅力を伝えるギャラリー、ミュージアムを併設し、とりわけ加賀藩祖前田利家(まえだ としいえ 1538〜1599)が着用した黄金具足の復元、絵画や九谷焼に施した金箔の精度が見どころです。極限まで薄さを突き詰めた箔打ちの技術や、江戸幕府の統制を掻い潜って“密造”していた歴史など、興味深い事項が解説されています。また2階のギャラリーでは、古今の絵画や九谷焼に金箔を施した作品が陳列され、絢爛でありながら繊細な世界観は圧巻。
ひがし茶屋街に立地するギャラリー&ショップ“金澤美蔵”(写真1、7〜10枚目)も金沢の工芸、手仕事に出会えるスポット。こちらは金沢のみならず、北陸一帯の作家や工房と関係性を築き、その作品を展示、販売。その文化水準の高さを丁寧に感じられます。とりわけ印象深かったのは、金沢市内の時計メーカー“シーブレーン”。その主力ブランド“はなもっこ”(写真1、10枚目)は、シンプルで柔らかいデザインが空間に溶け込む置き時計です。艷やかな質感で、ふっくらとした木地のフォルムのなかには、深い色合いの岩絵具と粒子のきらめきが流し込まれ、コントラストも鮮やかに金色の針が浮かび上がります。そしてこれらの用材の多くは地元の工芸作家が手掛けており、例えば木地は加賀山中の木地師の、盤面の下地となる和紙は金沢市内の紙漉き職人の手によるもの。さらに時を示す点(インデックス)には金箔が。結論、加賀国が培ってきた工芸技術、文化が的確にパーツを構成し、巧みに調和することで、総体として優れたインテリアへ完成しているのです。歴史ある伝統工芸の技術が、現代的なデザインにおいても全く色褪せない輝きを放つ事実……それを証明する“金沢らしさ”のあまりにも上質な内容を目の当たりにして感動もひとしおでした。
アクセス:金沢駅からバスで10分ほど(金澤美蔵まで)
ひとり旅おすすめ度:★★★(人はそれなりにいるが、広い場所なので気にならない)
探訪日:6月第3週平日12時ごろ
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【金沢城下町(②町人と遊芸文化)】(石川県金沢市 旧国名:加賀)
<町人の富に牽引された遊芸文化 絢爛な空間に細やかな心の動きが通います>
“加賀百万石”の本拠である金沢では、前田氏の安定した治世の下に城下町が発展し、江戸時代末期には三都(江戸・京都・大坂)と名古屋に次ぐ全国第5位の人口を有するなど、日本有数の都市に成長します。城下町では、第4代藩主前田綱紀(まえだ つなのり 1643〜1724)による文治政治などの影響で、早くから特徴的な文化や芸術が誕生。芸妓と客の遊ぶ“お茶屋”は城下に点在し、謡や音曲が夜の城下町を賑わせました。しかし、江戸時代後期に至ると藩は風紀上の観点からこの状況を問題視し、お茶屋を城下町の一角へ集中させます。1820年には城の北東を流れる浅野川の東岸と、南西の犀川(さいがわ)の西岸にお茶屋を集め廓(くるわ)を設立。今日“ひがし茶屋街”“にし茶屋街”と通称される花街が形成されます。
茶屋街に通ったのは裕福な商人や町人で、武士は藩から出入りを禁じられていました。藩や武士が中心となりがちな城下町においては異質とも言えるこの“別天地”が成立した背景には、経済の循環を支えた富商の存在があります。新田開発の請負、北前船の交易、酒や調味料の醸造、さらには磁器や漆器の生産など、加賀藩の広大な領土と高い文化水準に基づく事業を展開した商人たちは、遊宴や商談の場として茶屋街を活用。濃やかな遊芸文化を牽引していきます。
現在、ひがし茶屋街とにし茶屋街、さらにひがし茶屋街から見て浅野川対岸の“主計町茶屋街”(かずえまち 明治維新以降に成立した茶屋街)では、茶屋街特有の街並みや文化を体感できます。とりわけひがし茶屋街に立地する“志摩”(しま 写真3~10枚目)は、ひがし茶屋街創立時の姿を留めるお茶屋です。押し詰まったような陰影の深い玄関から、急峻な階段を上がった先に広がるのは客間。艶やかな質感の紅色を内壁に施した室内は、格調高さと優美さを兼ね備えたもの。一方、押入れを設けず床柱も細く整えることで、全体的に開放的な設計となり、ここが舞や芸曲のメイン・ホールであることを実感します。訪れた時は夏の盛りであったため、襖や障子は簾に変えられ、浅野川の方角から涼風が吹き抜けていきました。
茶屋街を舞台に育まれた遊芸文化は、舞や謡ばかりでなく、俳諧や茶の湯など多岐にわたり、芸妓も客も高い知性と教養を磨いていきました。そればかりでなく、間の設えや芸妓の挙措に表れた細やかな心遣いを汲み取ることも求められたため、お茶屋にはいわゆる“粋”という言葉に象徴される感性が充溢したのです。
こうした空間で生まれた文化の一つに“影笛”があります。これは客の前に敢えて姿を見せず、まるで風や虫の自然音のようにして芸妓が笛を奏でること。客前に出ることの少なくなった年配の芸妓が、その経験と高い技量を存分に活かして客をもてなすものです。影笛の案内がなされている志摩の離れは、先述の客間と比較して、青みがかって陰影の深い、落ち着いた雰囲気の部屋。まさに影笛という文化にも通じる印象で、敢えてこの部屋を好む客は、一通りの遊芸を知り相応の妙味を放つ、“通”だったものかと想像が働きます。彼らと、顔を見せない芸妓との間でしめやかに流れる音曲には、単なる遊芸という以上に、際どい心の動きと邂逅が繰り広げられたように思えてならず、その場面と人々の心についてさまざまな想像が尽きませんでした。
※志摩の1階奥には茶席“寒村庵”(写真8~10枚目)があり、庭を眺めながら抹茶と金沢の和菓子をいただけます。また、志摩の裏手に立地する“お茶屋美術館”(写真1枚目)では、茶屋街や遊芸文化に関する貴重な展示品を見学できます。
アクセス:金沢駅からバスで10分ほど(ひがし茶屋街まで)
ひとり旅おすすめ度:★★★(人はそれなりにいるが、広い場所なので気にならない)
探訪日:6月第3週平日11時ごろ
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【金沢城下町(①前田氏の武家文化)】(石川県金沢市 旧国名:加賀)
<文治政治の結晶となった“加賀百万石”の本拠 北陸の政治、文化を牽引しました>
江戸時代を通じて存在した250以上の藩のうち、最大の石高を誇ったのが加賀藩(かが 現在の石川県南部)です。その領土は隣国能登(のと 現在の石川県北部)、越中(えっちゅう 現在の富山県)にも及び、いわゆる“加賀百万石”の盛名をほしいままにしました。藩祖の前田利家(まえだ としいえ 1538〜1599)は、織田信長の近習から身を起こし、盟友豊臣秀吉の政権の屋台骨を支えた人物で、正妻“まつ”(1547〜1617 法号は芳春院)の内助の功と合わせて、現在でも高い知名度を誇ります。利家は賤ヶ岳の戦い(1583年。秀吉が柴田勝家を破って覇権を手にした戦い。両者と親交の深かった利家は、当初勝家に味方したが戦線を離脱し、秀吉に恭順した)の後に加賀国を領有し、その本拠として“金沢”を選定します。もともと金沢は、戦国時代に北陸を席巻した一向一揆の拠点である“尾山御坊”(おやまごぼう)が存在した土地で、一揆の平定後に勝家の部将佐久間盛政(さくま もりまさ 1554〜1583)によって御坊の跡地に城が築かれていました。利家はこの城を近世城郭へ大改造し、同時に城下町の開発に着手。以来、歴代の加賀藩主によって城下町は発展を続け、藩領における政治、経済の中心として現在の金沢市に受け継がれます。
利家の曾孫にあたる綱紀(つなのり 1643〜1724)は、江戸時代の大名でも有数の名君として知られ、文化、法制の整備に注力する文治政治を展開。その象徴となる“兼六園”(けんろくえん 写真1、5〜7枚目)は、綱紀が金沢城の隣に造営した邸園を前身とし、宋代の漢籍に謳われた、園池における“六”つの徳を“兼”ねるという意味を持ちます。綱紀以降、庭園はたびたび拡張され、現在では“徽軫灯籠”(ことじとうろう)や“唐崎松の雪吊”といった景観が金沢を代表する見どころとして人気を集めます。
城下町には藩士たちの屋敷も数多く現存し、なかでも“長町武家屋敷跡”(写真8枚目)は当時の姿をそのままに伝えます。屋敷群に通じる細い街路は、江戸時代の日本人の体のスケールや視線のあり様まで逆説的に示すもので、同じく金沢の観光名所として名高い“茶屋街”と比較すると、どこか質朴な趣。“武家屋敷跡 野村家”の、自然の風趣を存分に取り入れた小宇宙にもほっと心が安らぎます。
明治維新が成って加賀藩が廃されると、藩の存在を中心に経済、産業が循環していた金沢は大きな打撃を被ります。実質的な失業状態となった武士はもちろんのこと、武士や町人からの需要によって支えられていた工芸、芸術の担い手たちにもその余波は及び、幕末期に国内4位の規模を誇った人口は流出。都市は急激に衰退します(こうした景況が、旧加賀藩士による大久保利通の暗殺〈=1878年 紀尾井坂の変〉を誘発する)。それでも、1887年に旧制第四高等学校が、1898年に陸軍第九師団が置かれると、文教都市あるいは軍都として復興。近代的な気風を纏った街並みが新たに構成されます。このうち市内出羽町に立地する陸軍の兵器庫は、現在“石川県立歴史博物館”(写真9〜10枚目)として活用され、優雅な趣さえ湛える赤レンガ建築が目を引きます。倉庫群を巧みに展示室へと区分し、洗練された現代的な空間でつなぎ合わせたデザインは無理なく調和し、金沢だけでなく、古代の白山(はくさん)信仰や中世の一向一揆から続く歴史と関連させることで、加賀国の全体像を理解できる内容です。
同一の領主による安定した治世、そして古来加賀国に受け継がれてきた風土と文化を一気に円熟させた金沢。その城下町の発展の歴史は、世界に誇る観光都市、芸術都市として輝きを放つ今日の姿の確固たる基盤となりました。
アクセス:金沢駅からバスで15分ほど(兼六園まで)
ひとり旅おすすめ度:★★★(人はそれなりにいるが、広い場所なので気にならない)
探訪日:5月第2週平日12時ごろ
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