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【柳川城下町(②文学の夢路)】
(福岡県柳川市 旧国名:筑後)
<静穏な城下町に培われた“文学の母体” 美しい点景の数々に豊かな詩情を見出します>
福岡県南部の主要都市の一つ、柳川市(やながわ)では、柳川城跡を中心に水路が張り巡らされ、“どんこ舟”がゆったりと水面を渡るのどかな光景が見られます。今やそのノスタルジックな趣は観光資源としても注目を浴び、四季の伸びやかな移ろいが多くの人の心を癒してきました。この光景にいっそうの深みを与えるのが、この地に育まれた文学や芸術で、なかでも大正、昭和に活躍した詩人、北原白秋(きたはら はくしゅう 1885~1942)は柳川を象徴する存在として知られます。
白秋が生まれたのは城下町の西部にあたる沖端(おきのはた)。その名の示す通り、有明海へ注ぎ入る水流を誘い込んだ入江で、今なお有明海を漁場とする多くの船が舫います。入江の端には魚介類を商う老舗鮮魚店が賑わい、古より城下町の物流の拠点として繁栄した歴史を見て取ることができます。白秋が生まれたのもこうした海産物問屋の一つで、当時は造り酒屋としても財を成し、柳川有数の商家に数えられました。白秋は経済的に恵まれた環境で当時勃興していた浪漫的な文学、詩歌に親しみ、自らの詞藻を育みますが、1901年3月、折からの大風に煽られて沖端一帯に大火がおこり、白秋の生家も母屋を残して全焼。白秋を巡る環境も一変しました。しかし白秋は家産を失った生家から目を背けるように、ますます文学の世界へ没入。ついには家族の猛反対を振り切って上京すると、早稲田大学英文学科予科に入学し、そこで多くの学友を得て詩作に励みました。やがて新鋭の詩人としてつとに注目を集めますが、白秋の過誤を原因とした女性スキャンダルにより文名は失墜。失意のうちに三浦半島の南端に位置する三崎へ転居し、雌伏の時を送ります。
その後も家族の事業失敗、妻との離婚など、波乱と騒擾にまみれた生涯を送る白秋でしたが、1918年に神奈川県西部の都市、小田原(おだわら)へ転居。温暖な気候と静穏な環境の中に身を置いた白秋は、鈴木三重吉(すずき みえきち 1882~1936)の創刊した児童文学詩『赤い鳥』誌上で詩や童謡を発表。新たな文学の境地を拓き、小田原在住時代に500以上もの作品を手掛けたと伝わります。その後、小規模な浮沈を繰り返しながらも文壇の地位は揺るがず、今日、白秋の名は、日本を代表する童謡作家、詩人として、その作品と共に人口に膾炙しています。
白秋の生まれ育った柳川市沖端町には、復元された白秋の生家と“北原白秋記念館”(写真1~5枚目)が建ちます。生家では、なまこ壁が象る緊密な外観と、深い陰影と開放感が両立する内観のコントラストが印象的。白秋の子ども部屋や書斎なども残り、その人の息遣いまで立ち込めているようです。
柳川市内には白秋や童謡に関連するスポットも多く存在します。狭小な“江戸小路”を抜けた先にひっそりと佇む“江戸小路 すずめの時間”(写真6~9枚目)もその一つ。江戸時代の武家屋敷を改装して開かれた本屋兼ブックカフェで、白秋をはじめとする童謡作品、柳川にゆかりの深い文学作品を購入、閲覧できます。昔懐かしい絵本を数冊手に取り、庭に面した椅子へ腰掛けると、やわらかい木漏れ日が温もりを伴って注ぎ入り、周囲に吊るされている柳川の雛飾り“さげもん”がほんのりと色づきます。その優しさに満ちた空間で絵本のページをめくれば“あぁ、そうだここでこういう台詞があったなぁ”と、楽しさと懐かしさに、心がすっかり伸びやかになるというもの。
白秋は故郷に複雑な愛憎を抱きながらも、柳川を“我詩歌の母体”と言い表し、最晩年の傑作“帰去来”においてその情景を歌い上げています。
“山門は我が産土 雲騰る南風のまほら、 飛ばまし今一度、 筑紫よかく呼べへば 戀ほしよ潮の落差、 火照沁む夕日の潟……”
往古九州を指し、柳川の属する筑後国(ちくご 現在の福岡県南部)が最も色濃く継承した地名“筑紫”(つくし)に象徴されるように、この地に生まれ育った芸術家たちは、総じてその美しい情景を己の心事に灯し、高らかに表現しました。白秋はその代表的存在であり、柳川の情景に彼の詩句の一つ一つを当てはめて歩けば、自ずからその詩情に接し、深い共感を寄せることができるに違いありません。
アクセス:西鉄柳川駅からバスで12分ほど(北原白秋生家・記念館まで)
ひとり旅おすすめ度:★★★★(人はいるけど少なめ。静かに観光できる!)
探訪日:12月第3週土曜日12時ごろ
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【柳川城下町(①安らぎの水路)】(福岡県柳川市 旧国名:筑後)
<“水郷”の名を冠する典雅な城下町 伸びやかな四季の移ろいを湛えます>
筑紫(つくし)という地名は、上古広義において九州全土を指し、やがて九州が“豊”“肥”などの国へ分かれると、主に現在の福岡県へ継承されました。この地名の由来について、一説には(近畿から見て?)陸地の“尽きる”という意味とも、大宰府(だざいふ)へ続く官道が“石”を“築”いてできていた史実から転用したとも伝わり、定かではありません。しかし、律令制の整えられるより前に生まれた地名が、今日でも地域に深く根づいている事実を思い合わせるに、その歴史的経緯に加え、“筑紫”という語の持つ文学的あるいは絵画的な印象が作用していることは間違いないことと思います。
現在の福岡県南部にあたる筑後国(ちくご)は、往古の“筑紫”のイメージを最も色濃く受け継ぐ地域と考えられます。これは古代の統治者である“筑紫国造”の本領が後の筑後国域に置かれた史実以外に、耳納連山(みのう)の山容と筑後川の水流など、九州随一の平野を巡る自然の淡く伸びやかな趣が、“筑紫”の大きさと優しさを連想させるからです。また、筑後に生まれた人物や芸術の色彩もその想像を裏づけます。
柳川(やながわ 歴史上は“柳河”と表記されることも)は、中世から現代にかけて繁栄してきた筑後国の主要都市の一つです。血管のように細やかな水路の巡る筑後川下流域に位置し、豊かな水資源と、有明海に隣り合う地理条件を背景に、政略上の要衝として発展しました。中世には、北部九州の覇者大友宗麟(おおとも そうりん 1530〜1587 現在の大分県を本拠に勢力を拡大。キリシタン大名としても有名)の影響下で蒲池氏(かまち)が活躍しますが、龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ 1529〜1584 肥前国佐賀城主。九州西北部の雄)のために謀殺されると、大友氏をはじめとする大勢力の係争の地となります。豊臣秀吉の九州征伐後は、大友氏の部将立花宗茂(たちばな むねしげ 1567〜1643)が柳川を領しますが、関ヶ原の戦いで西軍についたため改易。後には田中吉政(たなか よしまさ 1548〜1609)が入封し、柳川藩が成立します。ところが田中家が1620年に無嗣断絶すると、立花宗茂が返り咲き、以降明治維新まで立花氏が襲封します。宗茂の波乱に満ちた生涯と武勇、誠実な人柄は、“戦国武将”の数少ない生き残りとして泰平の世においても脚光を浴び、一度は徳川家と敵対していながら、晩年は将軍から戦時の教えを請われるまでに信頼されたと伝わります。今日においてもその遺風は柳川の城下町に息づき、“立花家史料館”などでその足跡を知ることができます。
今日、柳川は福岡県有数の観光地としても知られます。なかでも田中吉政による柳川城の築城時に設けられた無数の水掘を巡る、“川下り”はその象徴。スマートな舳先の“どんこ舟”に揺られ、柳並木の下の水路を船唄と共に渡る情景は、何とも情趣深いものです。
川下りのゴールの一つでもある“御花”(おはな 写真1、3~10枚目)は、維新後に伯爵となった立花氏の邸宅。藩政時代の別邸に由来し、豪壮で開放感抜群の大広間から望む“松濤園”の景観が一番の見どころ。黒松の象る涼やかな佇まいのなか、園池には鷺や鴨といった水鳥が思い思いに楽しみ、何とも雅やかな光景が広がります。邸内に目を移せば、柳川の雛の節句の代名詞である“さげもん”が空間を彩り、春の爛漫たる賑わいを彷彿とさせるもの。巨細に渡るこの意匠は、筑後、ひいては筑紫の点景にほかならず、この地の湛える遥かな美景に想いを馳せることができます。
アクセス:西鉄柳川駅からバスで15分ほど(御花まで)
ひとり旅おすすめ度:★★★(人はそれなりにいるが、広い場所なので気にならない)
探訪日:12月第3週土曜日11時ごろ
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