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【十津川村】(奈良県十津川村 旧国名:大和)
<勤皇の志を貫いた“日本の最深部” その霊威と特殊な風土は別天地の趣を成します>
“十津川”(とつかわ)という地名は、日本史が大きく変動しようという時機に必ずといっていいほど現れ、やがて風雲が収束すると、数百年ものあいだ静かな眠りにつく奇妙な息遣いを有しています。大和国(やまと 現在の奈良県)の最南部に位置するこの山村は、現在の日本において実質的には最大の面積を持つ村で、その大きさは東京23区全体をも上回るもの。吉野から熊野へ至る大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)が縦貫し、自然の霊威と信仰の蘊奥に満ちるこの地域は、いわば“日本の最深部”のような趣を湛えます。
十津川が史上に現れる契機となったのが672年の“壬申の乱”(じんしんのらん)。吉野の山中に潜んだ大海人皇子(おおあまのみこ 後の天武天皇)が挙兵に及ぶや、山道を伝って十津川の士人が結集し、やがてその勝利に大きく貢献したと伝わります。この由緒もあってか十津川の民は累代勤皇の志があつく、また朝廷もその功績と険しい山谷が切り立つ地勢を慮って、“免租”の特例地として認めます。十津川は形式上、朝廷や幕府の支配を受けますが、実質的には郷民による自治が布かれました。このある種の独立国の様相をも呈する特異な風土は、時代ごとの“主流”に抗しようとする勢力の着目するところとなり、特に幕末維新の回天期には勤皇を唱える志士が深い山道を分け入ってこの郷村を訪れました。
十津川の歴史において、おそらく最も大きく日本史の転機と関わったのが、1863年に勃発した“天誅組の変”です。尊王攘夷そして討幕を志す浪士の集団が、大和国の天領五條(ごじょう)を占領し、公然と幕府に反旗を翻したこの事件は、後年に維新の魁と謳われ顕彰されます。彼らがわざわざ大和国の深部に攻め込んだ一つの理由には、勤皇の伝統を堅守する十津川の存在がありました。天誅組は五條を占領するや真っ先に十津川へ人を派し、勅命を奉じた挙兵の正当性を主張。実に1千ともいわれる十津川郷民を味方につけます。郷民は天誅組の言葉を信じ、高取城攻めなどに加わりますが、やがて政変によって天誅組こそが賊軍と名指しされている事実を知ると士気を疎漏して離脱。天誅組の敗北を決定的なものとしました。しかしこの後も十津川の郷民は、時に矛盾をも孕む数多の思想の交錯のなかで、一筋に勤皇の大義を貫く稀有な存在として認知され、飛矢のような鋭さで歴史に出現したのです。(この特性を利用された例として、坂本龍馬の暗殺に際し、犯人は龍馬を油断させるため十津川郷士を詐称した。こうした十津川の特殊な風土は“十津川村立歴史民俗資料館”<写真3~6枚目>で詳しく知ることができる)
一方、こうした十津川の文化的、精神的風土を醸成する大きな根拠となっているのが玉置神社(たまきじんじゃ 写真1、7~10枚目)です。神社は大峯奥駈道が紀伊国(きい 現在の和歌山県)へ差し掛かろうという霊域に位置し、古来十津川の鎮守として坐り続けました。伝承によれば、往古神武天皇(じんむてんのう)による東征の行路となった玉置山に、後に崇神天皇(すじんてんのう)の命で創建された社とされますが、実際には巨木、巨石に覆われた山自体に神を見出し、自然発生的に誕生した霊地とも思われます。現地を訪れてみると、地球の脈動を実感させる地層の断面が参道に露呈し、その前に据えられた小さな鳥居や祠に、人々が自然へ神秘を見出した心事を思いやることができるというもの。18世紀末に建てられた本殿は、欅材を用い岩肌をがっしりと掌握した堂々たる造りで、その前の鳥居や石段と共に、うっすらと銀あるいは青みを帯びています。その独特の佇まいは、ここがパワースポットとして近年注目を集めている根拠であり、また周辺の濃い陰影の樹林に溶け合う絶妙な美的感覚を醸成する材料です。その樹林へ分け入ってみると、高さ50mにも及ぶという杉の巨木が連なり、なかには樹齢3,000年を推定されるものも。幹を複雑に絡ませながら、刻々と暮れ行く天を沖するように聳えるその有り様は、人知を遥かに逸した造形感覚です。そこに宿る神秘と時間を想うに、十津川の風土と、そこに生きた人々の気分にどこか“別天地”という語を重ねることはそう難しくありません。
ひとり旅おすすめ度:★★★★(人はいるけど少なめ。静かに観光できる!)
探訪日:10月第1週土曜日16時ごろ
アクセス:五條ICから車で80分ほど(十津川村中心部まで)
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【高取城】(奈良県高取町 旧国名:大和)
<畿内近国の争乱の行方を占った要塞 “日本三大山城”の名にふさわしい堅牢な遺構を保ちます>
大和国(やまと 現在の奈良県)における戦史を顧みたとき、古く都の開かれた北部の平野と、それを南方から凝視する“山の領域”の勢力との争いであることが明らかです。とりわけ、飛鳥時代の壬申の乱(672)や、南北朝の争乱期には、吉野・大峯の山嶺に巨大な勢力が拠ることで、近国の山野を鳴動させる大規模な戦が連続しました。この際、南北両勢力の中間に位置する大和国中南部の拠点は、自ずと係争の地となり、その存在感は否応なしに高まります。
こうした要衝の代表として挙げられるのが高取(たかとり)で、中世には豪族の越智氏が高取山に山腹の壷阪寺(つぼさかでら 正式名称は南法華寺)を抱き込んで城郭を築き、四囲へ武威を誇示しました。越智氏は主に南朝へ味方したため、北朝軍を迎え撃つ最前線を担います。このため北朝側にもその武力は認められるところとなり、南朝が吉野を下り越智氏が北朝へ帰順した後も、従前の勢力を保ちました。しかし、旧南朝側という微妙な立場と、大和国南部で最大の実力を有することから、すすんで豪族間の対立を煽ることもしばしば。その最大のものが、1429年から足掛け10年に渡って繰り広げられる“大和永享の乱”です。越智氏の野心に加え、大和国と幕政の合従連衡が複雑に絡まって打ち続いた争乱は、一足先に戦国時代の到来を予感させる大規模なもので、結果的に越智氏は幕軍の討伐を受け一時的に没落するも、なおも粘り強く世を渡り安土桃山時代まで高取を拠点に存続します。
こうして越智氏の歴史が深く浸潤した高取城ですが、江戸時代には譜代大名の植村氏が高取藩を興し明治維新まで14代にわたって本拠とします。高取藩は2万石あまりの小藩ながら、藩主は幕政の中枢で要職を歴任し、西国外様大名の監視にもあたる存在でした。ところが1863年、尊王攘夷の機運が高まるなかで、浪士の一団が近隣の五條代官所を突如として襲撃し、討幕の挙兵に及びます。このいわゆる“天誅組”が、五條の次に標的としたのが高取城でした。天誅組は高取城の極めて堅固なことに目をつけ、奇襲によってこれを奪い、来たるべき幕軍との戦いに備えようと画策。総勢1千とも称する軍勢を暗夜に紛れて進めますが、高取藩はこれを察知し、寡兵でありながら天険を巧みに活かして防備を固めます。このため奇襲は破れ、逆に不意を衝かれた天誅組は敗走。高取城は江戸時代を通じて数少ない攻城戦の舞台となり、またそれに勝利を収めたことで堅城の名を恣にしたのです。(伝説では、江戸時代初期に、有事に備え将軍家から預けられていた大砲が奏功したという。司馬遼太郎はこの奇妙なエピソードを短篇「おお、大砲」に描いた)
明治維新が成って高取藩が廃されると、城もまた荒廃し、建造物のほとんどが破却されます。しかし、城を支え続けた石垣のみは鬱蒼と繁る樹林のなかに黙然と佇み、難攻不落の名にふさわしい威容を保っています。海抜583m、比高は実に390mという厳しい環境で、わずか2万石余りの小藩が石垣を積み上げ、豪壮な要塞を築いたことには驚かされるばかりで、岡山県の備中松山城、岐阜県の岩村城と並び“日本三大山城”といわれる所以もよくわかるというもの。とりわけ本丸や二の丸といった城の枢軸に近づくと、石垣の高さはいっそう際立ち、そのシャープな造形に磨きがかかったよう。反りの少ない直線的な石垣の構造と、散り積もる落ち葉の柔らかさが妙な不調和を醸し、どこか現実味の薄い不安定な感覚に囚われます。それでも本丸の石垣へ立つと、木立の間から遥か吉野の蒼然たる山並みを望むことができ、ようやく差し込んだ陽光で平衡感覚を回復。湿り気を帯びた山間の燐光を纏いながら、越智氏や天誅組の騒がしさと儚さを想うと、ぞっと身震いするような歴史の悠遠さを感じずにいられませんでした。
ひとり旅おすすめ度:★★★★(人はいるけど少なめ。静かに観光できる!)
探訪日:11月第2週平日14時ごろ
アクセス:バス停「壷阪寺」から徒歩で1時間ほど(車で登城口を目指すこともできますが、駐車場は整備されておらず、スペースに余裕がある時だけ駐車できます)
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【五條(②天誅組と“縦軸”の衝撃)】(奈良県五條市 旧国名:大和)
<“討幕”の魁となった一大事件の舞台 長らく培われた平和な街並みと見事な対照を成します>
吉野川の流れに面し、古来大和国(やまと 現在の奈良県)の山間部と平野部、さらには紀伊国(きい 現在の和歌山県)を結ぶ交通の要衝として栄えた五條。江戸時代はじめ、松倉重政(まつくら しげまさ ?~1630)の手により“五條新町”を中核とする城下町が開発されると、その賑わいはいっそう増し、名実ともに大和国中南部の中心都市として発展しました。松倉氏は1616年に肥前国(ひぜん 現在の佐賀県と長崎県の大部分)島原へ加増移封され、五條は幕府直轄の天領となります。この背景には、吉野・大峯山系より産する木材を、紀伊国さらに大坂へ運ぶ水運および紀州街道の拠点として、幕府が五條を極めて重視した事実が窺えます。18世紀の末には新町に隣接して五條代官所が置かれ、一帯の天領7万石あまりを治めました。現在、五條新町には“五條市まちなみ伝承館”(写真2、3枚目)、“五條市新町まちや館”(写真1、4枚目)などの展示施設が建ち、往時の繁栄を偲ぶことができます。
江戸時代を通じて、御三家の一つである紀州藩と天領、そして高取藩(植村氏 居城は大和国高取城)などの小大名と隣り合った五條は、時として吉野川の氾濫に悩まされながらも平穏のうちに時日を過ごします。ところが、ペリーの来航からちょうど10年を経た1863年8月17日夜、代官所は突如として浪士数十名の襲撃に遭い、代官鈴木源内は殺害されてしまいました。これがいわゆる“天誅組の変”(てんちゅうぐみ)の嚆矢で、五條はあまりに鮮烈な衝撃と共に時代の荒波へ巻き込まれていきます。
そもそも天誅組とは、当時勅命によって公表されていた孝明天皇(こうめいてんのう 1831~1867)の大和行幸に伴い、その先陣たらんと欲した尊王攘夷派の浪士たちによって結成された集団です。彼らは侍従中山忠光(なかやま ただみつ 1845~1864 明治天皇の叔父にあたる)を主将に擁し、藤本鉄石(ふじもと てっせき 1816~1863 岡山藩脱藩)、松本圭堂(まつもと けいどう 1832~1863 刈谷藩脱藩)、吉村虎太郎(よしむら とらたろう 1837~1863 土佐藩脱藩)の3名が総裁として実質的な指揮にあたりました。3総裁はいずれも尊攘派浪士の領袖で、尊王攘夷の理論を“討幕”と結びつけていた点が特筆されます。そのため、表向きには行幸の先払いと称しながら、実際には討幕の魁として自らを任じていました。
天誅組は京から大坂へ下ると、一旦船で大坂湾へ出ますが、すぐに和泉国(いずみ 現在の大阪府南部)堺へ反転し、千早峠を越えて北西から五條へ侵入します。対する代官所は、泰平の世の倣いのままに代官以下数名の幕吏が詰めているに過ぎず、仮にも7万石を治める政庁でありながら兵力を一切持ち合わせていませんでした。天誅組もその点に目をつけており、また五條町内には乾十郎(いぬい じゅうろう 1828~1864)などの協力者がいたことから、討幕の象徴として襲撃をしたのです。天誅組は五條を占拠すると、同地を天皇の直轄地として新時代の到来を布告します。今日、代官所の跡地には、現存の長屋門を改装した“五條市民俗資料館”(写真6、7枚目)が建ち、変事を詳しく解説しているほか、天誅組が本陣を置いた桜井寺(写真8枚目)などで彼らの軒昂な意気を追想できます。しかし天誅組は、彼らの存在の前提となる大和行幸が中止となり、京都で尊王攘夷派が失脚したため、言わば梯子を外された格好で凄惨な運命を辿ることとなるのです。
想えば、古代より吉野川に沿った“横軸”の物理的条件によって繁栄した五條にとって、北方から襲来した天誅組は長年の平和的気分をも粉砕する“縦軸”の衝撃でした。また、天誅組も遥かに去った明治時代の末には、五條から和歌山県の新宮市まで縦貫する“五新鉄道”が計画されるも中止となり、わずかに敷設された線路のみを残しています(写真9、10枚目)。この事実を合わせるに、風土や土地に住まう人々の精神に深く根差した歴史の“流れ”のようなものが、何か見えざる大きな力となって、無意識のうちに働きかけたのではないかと、その不可思議さに打たれる思いでした。
ひとり旅おすすめ度:★★★★(人はいるけど少なめ。静かに観光できる!)
探訪日:10月第1週平日14時ごろ
アクセス:五条駅から徒歩で15分ほど(五條市民俗資料館まで)
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