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【大三島のミュージアム】(愛媛県今治市 旧国名:伊予)
<気の循環・想いの循環を司るアートスポット 瀬戸内の景観と調和した建築も見どころです>
広島県尾道市(おのみち)と愛媛県今治市(いまばり)を結ぶ“しまなみ海道”は、瀬戸内海の穏やかな風光と景観、そして島ごとの個性が表れる資源に裏打ちされた一大観光コースとして、世界中から多くの人を集めます。その中心にある大三島(おおみしま)は、“日本総鎮守”として敬われた大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)を擁し、古来瀬戸内全体の社会、文化に多大な影響を及ぼしました。神社には宮浦港から参道が通じ、古くからの門前町の面影に、美しいデザインのリノベーションショップや飲食店が調和。観光拠点、グルメスポットとしても大きな役割を担います。一方、芸予(げいよ)諸島で最大の、約64km²を誇る島では、大山祇神社の鎮座する中心部以外にも見どころが点在しており、それぞれが島の風土を巧みに活かした魅力を湛えています。
① ところミュージアム大三島(写真1〜5枚目)
瀬戸内海に大きく迫り出した、島の南西部の岬に立地する現代美術館。横浜に住んだ実業家、所敦夫さんが大三島の風光に惚れ込み、自らの所蔵する現代美術を寄贈して設立したもので、ジャコモ・マンズー(1908〜1991 イタリアの彫刻家。サン・ピエトロ大聖堂扉の彫刻を14年かけて制作したことで有名)、トム・ウェッセルマン(1931〜2004 アメリカにおけるポップアート作家の代表)などの世界的アーティストや、林範親さん(はやし のりちか 1948〜)など、日本現代アートの旗手の作品を展示しています。その特徴として、海へなだれる丘陵の傾斜を活かした構造が挙げられます。ノエ・カッツの手掛けた“キッシング・ドア”に誘われて館内へ入ると、アーチ状に架けられた屋根が空間の奥行きと絶妙な“ねじれ”を演出し、その不可思議な印象の中に、アートが点在しています。菱形の木組みに支えられた屋根は、燦々たる瀬戸内の陽光を取り入れる役割を担い、館内は自然光ならではの柔らかい明るさに彩られます。
展示室は自然の傾斜に沿って何段階かに分かれますが、それぞれの段を下るために一度屋外へ出ると、彼方には紺青の瀬戸内海。ログハウスのように素朴な作りの屋外階段と合わせて捉えると、島の穏やかな風土そのものに想いを致すことができるよう。さらに最下段へ着地すると、その先にはオーシャンフロントのオープンテラスが。テラスは海景を切り取ったようにシャープなデザインで、手すりに身を預けて大きく息を吸い込むと、胸いっぱいに温かい潮風が流れ、背後の美術館を吹き抜けていきます。そのあまりに快い“気の循環”は、この島、この場所でなくてはならなかった、風土の必然性と人々の想いをそっと語りかけているようでした。
② 伊東豊雄建築ミュージアム(写真6~10枚目)
スタイリッシュなデザインと優れた機能性、何より利用者の利便や社会性に寄り添った建築を追究し、世界的な建築家として名高い伊東豊雄(いとう とよお 1941~)さん。大三島とはゆかりも無かった伊東さんのミュージアムが島に設立されたきっかけは、“ところミュージアム大三島”の創立者である、実業家の所敦夫さんとの出会いでした。共通の知人を介して知り合った伊東さんへ、所さんはところミュージアムの別館を設計するよう依頼。所さんの案内で、海路初めて大三島を訪れた伊東さんは、その穏やかな風致と美しい景観に惚れ込み協力を約束しました。ところが、伊東さんが抱いていた建築家の育成機関の構想を所さんへ開陳すると、所さんは自身が別館を建てるつもりでいた土地に、別館の代わりに伊東さん自らのミュージアムを建てるよう勧め、やがて“伊東豊雄建築ミュージアム”として実現します。ところミュージアムと同じく、瀬戸内海へ迫る傾斜地に建てられたミュージアムは、建築家の思索や理念を体現する、コンパクトでありながら創意に満ちた造形と内容で、来訪者の知的好奇心を刺激するもの。もちろん育成機関としての役割も担っており、建築関係の厖大な資料を公開するほか、ワークショップなども盛んに開催されます。さらに、島で唯一の高校である“今治北高校 大三島分校”の生徒への指導を通じて、大三島の地域振興にも携わるなど、その存在が島の活性化に与える影響は実に大きなもの。世界的建築家がひたむきに島の未来へ向き合い、その魅力発信の拠点を創造することで、大三島を巡る“想いの循環”の原動力となっています。
ひとり旅おすすめ度:★★★★★(心ゆくまで観光できる。ほぼ貸切!)
探訪日:5月第3週日曜16時ごろ
アクセス:大三島ICから車で25分ほど(ところミュージアム大三島まで)
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【大山祇神社】(愛媛県今治市 旧国名:伊予)
<瀬戸内の中心に鎮座する“海道の起源” その歴史と神秘性に唯一無二の魅力を保ちます>
伊予国(いよ 現在の愛媛県)の北端にあり、安芸国(あき 現在の広島県西部)との間に広がる芸予諸島の中心そして最大の島が大三島(おおみしま)です。その地勢をさらに広く捉えると、瀬戸内海全体にあってもちょうど中心の位置と見て取れ、島の存在が物心の両面において、瀬戸内の社会へ多大な影響力を有したことは必然的な事実です。
島の玄関口である宮浦港に降り立つと、すぐさま目に入って来るのは均整の取れた石造の鳥居。穏やかな夕陽にほんのりと色づきながら、島の内部へ誘うように、優美に、しかし黙然と佇むその姿は、この島が“ただものではない”という気配を否応なく体現しています。これこそが、伊予国一宮にして“日本総鎮守”の異称を持つ、大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)の参道の始まりです。
大山祇神社の祭神である大山積大神(おおやまつみのかみ)は、伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の子にして天照大神(あまてらすおおみかみ)等の兄にあたり、その名の示す通り“山”の霊威を司る神と伝わります。大山積大神を祀る神社は全国に多く、大山祇神社のほか、静岡県三島市の三嶋大社、神奈川県伊勢原市の大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)など多岐に渡り、それぞれが日本の歴史や文化に深い影響を及ぼしました。さらに記紀神話においては、神武天皇(じんむてんのう)東征の折に、先駆けとして四国へ渡った小千命(おちのみこと 大山積大神の子孫とされる)が大三島へ祭神を勧請したと録され、以来瀬戸内海の“海道”を統べる海の神としての性格も加わります。これらの由緒から、朝廷より日本総鎮守の称号を与えられるなど、名実ともに日本を代表する神社の一つとして認められたのです。
先述のように、海道そして武運(神武天皇の東征に由来)と強い関係性を持つ大山祇神社は、特に中世以降日本史の主役へ躍り出た武士たちから篤い崇敬を受けました。その証左となるのが、宝物館に収められている数多の武具。わけても甲冑の所蔵数は日本一で、伊予守に任じられていた源義経(1159~1189)奉納の大鎧から、戦国時代に近海で躍動した村上海賊や、伊予守護職の河野一族ゆかりのものまで、各時代を代表する名品が一堂に会します。その展示を追うだけで、日本の武具の変遷やその時代背景にまで想像を巡らすことができ、この至宝がただ一つの島の、神社に集まっている事実に驚きを禁じ得ません。
瀬戸内海の潮風と、神体の一つとされる鷲ヶ頭山(わしがとうざん)より下る山気が融和する境内には楠が群生しており、国の天然記念物にも指定されています。なかでも小千命お手植えとの伝承を持つ楠は樹齢2,600年にも及ぶもので、その樹勢と風格は圧巻。燦々として明るい陽光が注いでいながら、楠の緑陰と生気を伴う爽やかな空気が満ち、先に見た宝物館内の重厚な雰囲気と魅力を全く異にするコントラストを体感できます。現在の社殿は室町時代前半の1427年に建造されたもので、平板な檜皮葺の屋根が特徴。日本総鎮守という厳めしい称号からは意外性を覚える簡素なつくりですが、それがかえって空の広さと開かれた雰囲気を感じさせる建築です。
ひとしきりの参拝と島全体の観光を終え、参道近くの宿に荷を下ろし、心地よい初夏の夕暮れに紛れて再び神社を訪れると、濃い樹影の立ち込める境内には、自然の気配がさらさらという瀬音を伴っていっそう深く感じられます。そして瀬音に近づき漠然と思いにふけっていると、足元にうっすらと明滅する光が。予期せぬ遭遇に驚き辺りを見回してみれば、木々の繁るそこかしこに、か細い光が柔らかな曲線を描き、何とも幻想的な情景を生み出していました。それが、日常ではほとんど見ることのなくなってしまった蛍の光だと気づいたとき、この光を纏いながら、山を負い、海を望む大山祇神社の存在に想いを致して、その神秘性にただただ陶然とするばかりでした。
ひとり旅おすすめ度:★★★★(人はいるけど少なめ。静かに観光できる!)
探訪日:5月第4週平日10時ごろ
アクセス:大三島ICから車で10分ほど
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【“村上海賊”の航跡】(愛媛県今治市 旧国名:伊予)
<海を知悉し、掌握した“日本最大の海賊” 急激な潮流にその実力を体感できます>
瀬戸内海の海上交通の利便と安全は、沿岸諸地域の社会あるいは住民へ直接的な関係を持つばかりでなく、西国全体の経済や政事の動力として、広い影響力を有しました。さらにいえば、平安時代には平清盛(1118~1181)が安芸国(あき 現在の広島県西部)厳島を拠点に海道を統べ、日宋貿易を展開した事実を顧みるに、瀬戸内海の交通は、国域を超えた東アジア社会への波及効果もあったことが裏付けられます。この交通の発展は、瀬戸内海の風浪が比較的穏やかで、沿岸の港湾にも先進都市が多く存在したことを根拠としましたが、一方で避けては通れぬ難所も存在しました。その最たる例が、伊予国(いよ 現在の愛媛県)に属する飛び石のような島嶼付近の海峡で、複雑な地形が気まぐれな潮流を生みだし、多くの船を飲み込んできたのです。いわばこの“海の関所”をいかに突破するかという点は船乗りたちの悩みの種でありましたが、中世に入るとこの島嶼に強大な軍事勢力が拠って潮流を自在に乗りこなしたため、海域の制海権は彼らの手に収斂されることとなりました。この軍事勢力こそが、後に“村上海賊”と呼ばれる存在です。
そもそも村上海賊の起源は今なお詳らかでなく、元は信濃国(しなの 現在の長野県)を拠点とした武士が、平清盛の栄耀とほぼ同時期に芸予諸島へ根づき、各島の支配権を確立したと伝わります。南北朝時代にはすでに史料上で活躍が確認され、主に畿内への物資を積む輸送船を案内あるいは警護するなど、経済活動の安定に欠かせぬ役割を担っていました。戦国時代に入ると、周防国(すおう 現在の山口県東部)の大内氏や安芸国の毛利氏といった中国地方の大大名と、伊予国の河野氏をはじめとする四国の大名、さらには豊後国(ぶんご 現在の大分県南部)の大友氏が調略の手を伸ばし、村上一族は主に3つに分派して合従連衡を繰り返します。その過程において、海戦のスペシャリストすなわち“水軍”としての性格も強まり、軍船の舳先を並べては、島嶼を要塞化して気勢を高らかに上げたのです。
とりわけ有名なのが、宣教師ルイス・フロイス(1532~1597)をして“日本最大の海賊”と言わしめた村上武吉(むらかみ たけよし 1536~1604)。武吉は伊予国能島(のしま)を本拠とし、主に毛利氏と協調しながらも、瀬戸内海周囲の微妙な政情を凝視しては独自の武威を誇示しました。その活躍は瀬戸内海に留まらず、毛利氏の依頼で大坂湾へ乗り込み織田信長の軍勢と戦火を交えるなど、名実ともに日本を代表する水軍の将として認められます。しかしながら、豊臣秀吉による天下統一の構想では、海道を扼する村上海賊は経済発展の障害であり、秀吉の指示を受けた毛利氏により攻められ能島を退去。その後は毛利氏の家臣となり朝鮮出兵などに参戦しますが、ついにかつての勢威を取り戻すことなく、瀬戸内海そして時代の表舞台から遠ざかっていきました。
武吉の子孫は長州藩士として存続しますが、むしろ彼の遺徳は故郷である瀬戸内海に親しく語り継がれました。日本全体が幕府の下に一つの経済圏として集約され、泰平の日々が続くなかでは、かつて縦横に船を乗り回し、海を知悉して自在に振舞った村上海賊へ一種の憧憬が重ねられたのかもしれません。さらに、村上海賊はあくまでも“案内人・警護人”でしたが、現代においては、武吉たちによる水軍としての活躍も相まって、いわゆる“バイキング”に通じる粗暴な“海賊”という誤解も生まれています。地元では村上海賊の正しい姿を伝えていこうと、今治市大島の“村上海賊ミュージアム”を中心に熱心な顕彰が進んでいます。ミュージアムでは村上海賊の実態が細かに解説され、いまや“日本遺産”にも認定されたその歴史上の存在意義を実感できるというもの。さらに注目すべきは、ミュージアム近隣の港から瀬戸内海へ出航する“潮流体験”。その迫力は圧巻の一言で、四囲で轟々と音を立てる潮は、大雨の後の川に近しく、海が“流れる”という特異な現象を目の当たりに。体験のクライマックスでは、武吉の拠った能島を、その石垣を目視できるほどの距離まで近づくことができます。しまなみ海道の大橋を透かして沈む夕陽に照らされながら、逆巻く潮流のなかに確固として屹立するその様は、どこか村上海賊そのものの矜持を体現しているかのようでした。
ひとり旅おすすめ度:★★★★(人はいるけど少なめ。静かに観光できる!)
探訪日:5月第4週平日16時ごろ
アクセス:大島北ICから車で5分ほど(村上海賊ミュージアムまで)
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【コンテックスタオルガーデン】(愛媛県今治市 旧国名:伊予)
<起死回生の“今治タオル”ブランディングストーリー 温もりたっぷりの空間設計がみどころです>
瀬戸内海沿岸に点在する港湾都市の代表格で、日本における造船業の牽引役でもある愛媛県今治市(いまばり)。城下町と港が接続した絶好の立地条件は、近代に入ってなお産業の発展を力強く促し、今日では愛媛県下で2位、四国全体でも県庁所在地を除くと最大の人口を有します。その産業そして観光資源として、真っ先に名の挙がるのが“今治タオル”。確固たる品質に裏打ちされたブランドは、今や世界的にも認知されており、日本の繊維業において特別な存在感を放っています。
そもそも今治は温暖な気候と四国山脈から流れ下る清冽な水脈、そして水が拓く肥沃な土壌に恵まれた土地で、江戸時代から綿が盛んに生産されていました。瀬戸内海を通じて大坂への連絡も易いことから、今治藩は藩の主要産業として生産を奨励し、“伊予木綿”のブランドとして認知されます。明治時代には藩政期の産業の素地に技術の発展が加わり、大阪において国産の“タオル”が開発されると、今治の綿商人阿部平助が率先してタオルづくりを開始。1894年に初めて今治産のタオルが誕生します。その後、海運業の発達と伴走するようにタオルづくりも勢いを増し、各工房が技術を進化させて効率的な製法を確立することで、大阪と並ぶ一大産地として地位を築きました。
太平洋戦争において、造船所が集結していた今治は大規模な空襲に見舞われ、タオル工場も甚大な損害を被るものの、戦後復興に尽力した労働者たちに寄り添うタオルは次第に産業として骨格を立て直し、1960年代には今治市が日本一の生産量を誇りました。ところが、20世紀末に至ると中国から安価なタオルが大量に流入し、国産タオルの需要は低下。今治もその例外ではなく、生産量は最盛期の5分の1にまで減退し、まさしく存亡の危機に瀕します。そこで、起死回生に懸ける今治のタオル産業が手掛けたのは“ブランディング”でした。これまでの大量生産から一転し、長い歴史と多彩な知見、何より他の追随を許さない高い品質を、わかりやすく、クリエイティブにアピールすることで、中国製品との差別化を図ったのです。そして、この一大プロジェクトの舵取りを託されたのがグラフィックデザイナーの佐藤可士和(さとう かしわ 1965~)さんでした。
佐藤さんはかねてより今治産タオルの吸水性や機能性、手触りの柔らかさに注目しており、またそのポテンシャルを信じて疑いませんでした。ブランディングにあたっては、林立する工房の技術に一定の機軸を設け、まずその品質の高さを担保することを優先。そこで生まれたのが現在の“今治タオル”の代名詞とも言うべき“5秒ルール”でした。これはタオルの吸水性を測る方法の一つで、繊維を水に浮かべたとき5秒以内に沈まないと、ブランドとして認められないというもの。厳格でありながら親しみやすいこの条件は、今治タオルの品質を広く知らしめることに奏功し、合計12細目に及ぶ品質基準と合わせて世界基準のブランドを確立するに至ったのです。
今治市街西郊の丘陵地に位置する“コンテックスタオルガーデン今治”は、こうした今治タオルの魅力に触れ、購入するのにうってつけのスポット。今年でちょうど創業90年を迎える“コンテックス株式会社”の直営店舗で、もともとは1950年に建造された繊維工場の建物。四国の温かい日差しが赤レンガの外壁を仄かに色づけ、高窓を透かしてショップ内にも燦々と外光の明るさが満ちます。その温もりをふんだんに含んだタオルを手に取れば、上質な柔らかさと安心感にうっとりと心惹かれるもの。コンテックスでは、用途やデザインに合わせた糸を独自に開発しているため、今治タオルのなかでも特にオリジナリティの強い商品が並びます。“クツシタ人”なる不思議なキャラクターも愛嬌たっぷりに出迎えてくれますが、これは品質基準に満たなかった端材を縫合して生まれ変わらせたもの。今治タオルのトップランナーとしての矜持に加え、基準から漏れた素材も余すところなく利用することで、ブランディングの表裏を創意工夫で包み込んでいるのです。その在り様は、佐藤さんがデザインした “3色ロゴ”が象徴する、シンプルでありながら可能性に溢れた今治タオルの魅力を雄弁に物語っていました。
ひとり旅おすすめ度:★★★(人はそれなりにいるが、広い場所なので気にならない)
探訪日:5月第4週平日10時ごろ
アクセス:今治ICから車で10分ほど
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