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【賀名生の里】(奈良県五條市 旧国名:大和)<深山に囲われたもう一つの都 裏面史と文学を結節して不変の魅力を湛えます
14世紀前半に興ったいわゆる“南朝”といえば、京都の“北朝”に対して大和国(やまと 現在の奈良県)吉野に行宮を営んだことは有名です。しかし吉野は1348年に北朝軍のため陥落しており、以降南朝は吉野西麓の賀名生(あのう)を中心に朝威を張りました。賀名生は大峯の幽深な山谷を北に伝う、丹生川(にうかわ)の畔に位置し、実際に現地を訪れると、仮にもこの谷あいに一つの朝廷が存在した(しかも、1351年に北朝が南朝へ一時的に降った際、賀名生は名目上日本唯一の都となっている)ことがにわかには信じがたい静穏な小村です。一方で、地域を縦貫する道(国道168号線)の交通量は思いのほか多く、また吉野山や五條へ通じる古の尾根道も残ることから、守りに易く、進退も自在な要所であった事実も窺えます。
そもそも賀名生の地は、高野山と吉野を結ぶ峰の中継に位置することから、後醍醐天皇(ごだいごてんのう 1288〜1339)が吉野へ入る前にも、この地を一時的に拠点とするなど“山上交通”の要衝でした。賀名生には土豪の堀氏が根づき、南朝累代の天皇を献身的に支えます。そのため南朝は大勢において北朝の攻勢にさらされながら、山水の険と尊王の人心を恃んで粘り強い抵抗を続けました。その甲斐もあり、1352年には北朝の内訌を衝いて京都へ進軍。北朝の光厳上皇(こうごんじょうこう 1313~1364)ら3人の上皇を賀名生へ拉致するなど、その士気は高揚しました。南朝は1392年に北朝と合一され、ついに賀名生でその旌旗を降ろしますが、この後も南朝再興を期したいわゆる“後南朝”(室町時代を通じて断続的に出現した、南朝の後裔を称する勢力)の蠢動の舞台となるなど、南朝のもたらした陰影は賀名生の風土に浸潤しました。
今日でもその影響は大きく、“賀名生の里歴史民俗資料館”では南朝の遺品や伝承の数々が展示、解説されています。資料館の裏手の山腹には、南朝の実質的な指導者であった北畠親房(きたばたけ ちかふさ 1293~1354 当代随一の学者でもあり南朝の正統性を説いた『神皇正統記』を著したことで有名)の墓所も存在。さらに堀氏の屋敷も現存しており、深い陰影を纏う豪壮な茅葺屋根と、幕末に天誅組(てんちゅうぐみ 尊王攘夷の先駆けとして1863年に挙兵した浪士の集団。大和国内を転戦したが幕軍に討伐された)の遺した“皇居”の扁額が印象的。2019年からは“賀名生旧皇居 KANAU”の名で宿泊施設、レストランとしても営業しており、観光客でも気軽に訪れることができます。館内では、数百年に渡って貴重な文物を受け継いできた堀氏の歴史や、住宅の建築史的価値を実感しながら、地産の食材を用いたイタリアンを味わうことができ、この奇妙な調和がさまざまな想念をかき立てるというもの。
そうした想像に耽っていて思い出したのは、『太平記』巻三十九の一場面。それはまさに賀名生を舞台としたもので、個人的に、日本のあらゆる古典文学の中でも特に印象深い一節です。時は南朝2代の後村上天皇(ごむらかみてんのう 1328~1368)の治世、山間に厳しい冬の寒さが立ち込めるなか、一人の僧がわずかな供と賀名生の御所を訪れます。信じがたいことに、その僧こそは北朝の光厳上皇がなりを変じた姿で、数年前に賀名生での監禁生活を解かれ京都に戻った後、諸国行脚の旅に出ていたのでした。上皇は仇敵である後村上天皇と対面し、一夜を語らいます。その述懐するところでは、若年に鎌倉幕府滅亡の戦に巻き込まれてから、休むところなく血みどろの争いに担がれたが、世の中とはなんと憂きものだろうかと悟り、仏の道に仕え自然の万象を友にしたいと願ったのだと。かつては日本を二分する争乱の主役だった上皇が、澄み切った心事で語る姿に、後村上天皇や南朝の諸卿は涙しました。やがて上皇は雪の降り残る山道に草鞋を踏みしめ、いずこへか去っていきました。後村上天皇はその姿を自ら見送り、永遠の別れを偲んだというものです。
想えば、両朝の天皇は確固として相容れぬ主義の象徴でありながら、実際には武士や公卿の政争に擁されただけで、終わりの見えぬ戦乱の渦中に悲壮な徒労感を以て通じていたのかもしれません。あまりに劇的なこの両朝の旗頭の対面は、多分に創作的でありながら臨場感を以て人々の心に訴えるもので、賀名生という土地に玄妙な魅力を醸しています。
ひとり旅おすすめ度:★★★★★(心ゆくまで観光できる。ほぼ貸切!)
探訪日:10月第1週土曜日12時ごろ
アクセス:五条ICから車で20分ほど
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【吉野③(水分神社と詞藻の系譜)】(奈良県吉野町 旧国名:大和)
<史実と幻想が混淆した“歌枕”の代表格 その水脈は多くの詩歌に息づいています>
日本の文学史上における“吉野”の存在を考える場合、同地の歴史上に最も名高い南北朝時代から遡り、平安時代まで視線を戻す必要があります。古来、吉野は役小角(えんのおづの 7世紀頃)によって開かれた金峯山寺(きんぷせんじ)を中心に、修験道の信仰拠点として繁栄しましたが、役小角は金峯山寺の本尊である“蔵王権現”を感得した際、その姿をヤマザクラの木に刻みました。この縁起から、吉野とヤマザクラは“歌枕”的結節を成し、やがて多くの文学作品を生む素地と気分を生み出します。
吉野における文学性を語る際に欠かせないのが西行(さいぎょう 1118〜1190)です。西行は俗名を佐藤義清(のりきよ)と言い、宮中の警護を担う“北面の武士”でしたが、23歳の時に卒然と出家に至りました。その動機については今日なお明らかでなく、武士の業への絶望とも、恋に破れた末の失意とも伝わります。間もなく笈を背に漂泊の旅に出た西行は、吉野金峯山を登りつめた先に小さな庵を結び、3年にわたる時日を過ごしました。西行はこの庵居の様を
とくとくと 落つる岩間の 苔清水 汲みほすまでも なき住居かな
と詠みました。また、桜をこよなく愛した西行は、役小角に由来する“吉野=ヤマザクラ”の結節を意識してか桜にまつわる歌も多く残し、今日にも継承される、吉野の“桜の名所”というイメージの醸成に影響しました。
西行が吉野を去り、源平の争乱が打ち続いた後、吉野には新たな文学の系譜が紡がれます。その主役となったのが源義経(1159〜1189)です。義経は、平家を壇ノ浦に滅ぼす大功をたてながら兄頼朝と懸隔を生じ、兄から追われる身となりました。1185年冬、畿内から脱出すべく、義経主従は金峯山寺やその僧坊吉水院などの宗教勢力を頼って吉野に入りましたが、間もなく同所に危険が迫ると深雪の山越えを図ります。ところが、吉野から熊野へ抜ける大峯(おおみね)の山道は古来女人禁制と定められていたため、義経はやむなく愛妾の静御前(しずかこぜん 生没年不詳)へ山中に今生の別れを告げました。やがて静御前は頼朝の手勢に捕われ、鎌倉へ送還された後に、仇である頼朝夫婦を前にして
吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
と義経への慕情を歌い上げたことは有名。その悲恋と気高い精神は、彼らの人気を高めた物語が流行するとともに、吉野とりわけその冬景に清冽な燐光を添えたのです。
時代は下り“南朝”の盛衰に伴う多くの人生が明滅すると、吉野の文学的風土はいっそう豊穣なものとなります。とりわけ現代の観光地としての位置に通じるのが、1594年の“吉野の花見”。豊臣秀吉(1537〜1598)が文武百官およそ5千人を率いて催したこの盛事は、全山を挙げての祈祷(雨が止まねば寺社を焼き討ちにすると秀吉は脅したという)、趣向を凝らした諸大名の仮装大会など、数々の逸話を生み出したほか、竹林院群芳園(ぐんぽうえん 写真8~10枚目 吉野の花見に際して細川幽斎が整備したという)などの旧跡を今日に伝えています。
他に、一連の系譜を体感するのに最適なのが吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ 写真1〜7枚目)。西行が庵を結んだ上千本に近く、豊臣秀吉の子秀頼(1593 〜1615)の命で再建した社殿が建ちます。その名に示される通り、山嶺の水源として古くから尊崇された神社で、“みくまり”と“みこもり”の類似から子宝の神としても有名。実際に結縁した例も多く、江戸時代の国学者本居宣長(もとおり のりなが 1730〜1801 伊勢国松阪の医師だったが、国学に傾倒して『古事記』を著し大きな影響力を持った)の父もその一人。宣長は水分神社への祈願によって授かった子と聞かされていたようで、その縁起から吉野を旅行し、当地の魅力を『菅笠日記』(1772)に記して世に広めました。このように、自然、信仰、歴史、政事、恋愛とさまざまな要素が輝きを放ちながら混淆した吉野の風土と文化は、日本における“歌枕”の典型と見ることができ、宣長の提唱した“もののあはれ”の心性にも深く通じる魅力を保っています。
ひとり旅おすすめ度:★★★★(人はいるけど少なめ。静かに観光できる!)
探訪日:10月第1週土曜日8時ごろ
アクセス:近鉄吉野駅から徒歩で35分ほど(如意輪寺)
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【吉野(②如意輪寺と南朝の盛衰)】(奈良県吉野町 旧国名:大和)
<日本史に確固たる一時代を刻んだ“南朝”の旧跡 縹渺とした想念が山嶺にまとわります>
役小角(えんのおづの 7世紀頃)によって開かれた金峯山寺(きんぷせんじ)を中心に、修験道の信仰の地として誕生した吉野。蔵王権現が象徴する自然の霊威を求め、諸方から尾根筋を伝って集う修行者たちによってその勢力は膨れ上がり、36の僧坊と多数の僧兵を抱える一大拠点となります。元来、熊野や高野山といった強大な宗教勢力との連絡に易く、大和国(やまと 現在の奈良県)の平野部にも一挙に打ち出すことのできる吉野は、戦略上の要衝とも見なされました。鎌倉時代の末期、後醍醐天皇(ごだいごてんのう 1288~1339)が倒幕の兵を挙げると、吉野にはその皇子護良親王(もりよししんのう 1308~1335)が拠りました。親王は年少の頃より比叡山をはじめとする天台宗の諸寺に入るや、20歳にして天台座主の地位に就き、宗教勢力との結びつきを強めます。一方で、武芸百般に通じた親王は、僧籍に在りながら昼夜兵法を練っては刀槍を振るい、さながら新時代を切り拓くべく旺盛な意気を示したのです。
親王は般若寺や十津川(とつかわ)など、大和国内を転戦しながら抵抗を続け、父天皇が一時的に追放された後も頑強に倒幕の檄を飛ばしました。その甲斐あって、吉野が幕府軍のために破れてなお、山嶺の諸砦に結集した僧兵や武士団の援を得て、ついに倒幕を実現します。この経緯から、後に親王が謀反の罪に問われ失脚し、足利尊氏(あしかが たかうじ 1305~1358)が光厳上皇(こうごんじょうこう 1313~1364)を擁して南北朝の争乱に至ると、後醍醐天皇は吉野へ下りいわゆる“南朝”を開府。金峯山寺の奥に行宮を営み、都から共に逃れた諸卿と朝議を催し、綸旨を盛んに発して政権の奪還を図りました。しかしながら、その念願を果たすことなく天皇は崩御し、1348年には北朝の驍将、高師直(こうのもろなお ?~1351)の軍によって吉野は焼き払われ、後村上天皇(ごむらかみてんのう 1328~1368)らは西走。賀名生(あのう 現在の奈良県五條市西吉野町)に朝廷を移すと、なおも北朝の内訌の間隙を衝いて粘り強く勢力を維持しました。
吉野に南朝の天皇が在ったのは、南北朝時代を通じてもわずかに20年ばかりでしたが、その存在感は長い日本史の中でも特筆すべきもので、今日の吉野にも名残を多く留めます。とりわけ金峯山寺の位置する峰の中腹には、南朝の旧跡が点在。後醍醐天皇の陵墓に隣接する如意輪寺は、南朝の勅願寺に定められた名刹で、楠木正行(くすのき まさつら ?~1348)ゆかりの寺としても有名です。正行は、名将楠木正成(くすのき まさしげ 1294?〜1336)の嫡男として、父の戦死後に楠木党を率いました。若年でありながら父譲りの軍略の才を示し、北朝の歴戦の武将たちを立て続けに破るなど、落日の南朝にあって一人気を吐きます。しかし、1348年に河内国(かわち 現在の大阪府中部)四條畷(しじょうなわて)で師直の大軍に激闘を演じた末、壮絶な最期を遂げました。この敗戦の直後に吉野が陥落している事実を照らしても、正行の存在と武名が南朝の盛衰を象徴していたというイメージを伝えても不思議はありません。このため、正行の生涯は『太平記』をはじめとする文学や巷説において、“悲劇のヒーロー”として彩られていきます。如意輪寺では、河内国への出陣にあたって死を覚悟した正行が、一族郎党の名と辞世を矢じりで刻んだという門扉が残るほか、正行の恋人だったという弁内侍(べんのないし)にまつわるエピソードも伝わります。内侍はその美貌に目をつけた師直によって京都へ拉致されるところを正行に救われ恋仲となりましたが、決死の正行は内侍との婚を自ら断ちました。しかし正行の死後、悲嘆に暮れた内侍は如意輪寺で剃髪したすえ、人知れず吉野を去り、正行の供養に一生を捧げたとも。無論、これらの伝説は後世の潤色が多分を占めると想像されます。一方で、名もなき正行、内侍のような人物が吉野に実在したこともまた確かであり、南朝が消滅した後も、彼らの悲劇を、その意義を、長い日本史に配して考え、偲んだ無数の人生がありました。彼らの嗚咽は山谷にいんいんと木霊し、やがてその響きは吉野へ日本屈指の“文学の土壌”を生成することとなります。
ひとり旅おすすめ度:★★★★(人はいるけど少なめ。静かに観光できる!)
探訪日:4月第5週祝日15時ごろ
アクセス:近鉄吉野駅から徒歩で35分ほど(如意輪寺まで)
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【吉野(①金峯山寺と峰道の開通)】(奈良
<山嶺の諸道を統括した山上世界の都 玄妙な信仰と風土が日本の“裏面史”へ誘引します>
“吉野”の日本史における特異な存在感は、“山”ではなく“峰”であったことに起因すると考えます。峰はあくまで行路の一つで、そこが終着ではない……古来この峰を通った無数の人生は、眼下を遥かに望みながら“岐れ路”に立ち、己のあるいはこの国の、来し方行く末に想いを馳せたのではないでしょうか。それゆえ、吉野の歴史はちょうど雲霧の揺曳する景観そのものの趣きに通うように、正史で捉えることの叶わぬ劇的な“裏面史”、そして多くの宗教的、文学的装飾に彩られています。
大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)は、熊野から吉野までのおよそ80kmに通じる山道です。この道を拓いた役小角(えんのおづの 7世紀頃)は、大和国(やまと 現在の奈良県)葛城山系の麓に生まれた人物で、前鬼後鬼を従える強力な法力を巡らせ、諸道に山岳信仰を伝播しました。その生涯は多分に伝説的でありながら、史書(続日本紀)にも録されるなど、古代史に玄妙な奥行きをもたらす存在です。
役小角は吉野金峯山(きんぷせん)の頂で修行に勤しみ、現世の平安と悪障の降伏を祈念します。その念力に応えて出現したのは釈迦如来、観音菩薩、弥勒菩薩の三尊でしたが、役小角はさらなる仏力を求めて祈念を続けました。するとにわかに天地が鳴動し、雄渾な憤怒相の権現仏を感得。これこそが“蔵王権現”で、釈迦、観音、弥勒の三尊が、役小角の強力な法力に応えて変現したものと伝わります。役小角はその尊容をヤマザクラに刻み、山中に祀りました。祭祀の地は後に“金峯山寺”(きんぷせんじ)となり、役小角を開祖とする修験道の本山そして吉野の中核として今日まで繁栄します。
現在、金峯山寺では高さ7mにも及ぶ巨大な蔵王権現三尊を祀ります。雑味の無い濃厚な質感の青に色塗られたダイナミックな姿態、そして深く刻みつけられた憤怒相の在り様は自然の霊威そのものを充溢させたよう。とりわけ、期間限定で開催される夜間拝観の際には、突如として像を照射するため、深淵な暗闇の中に顕現したその様はさながら一閃の雷光を想わせる凄絶な印象をもたらします。この巨像を蓋う蔵王堂(本堂)も、およそ狭小な峰筋にはふさわしからぬ規模の建築で、高さ34mにも及ぶ豪壮なもの。巨大な木材を緊密に組み合わせた基幹をしっかりと掌握する檜皮葺の大屋根は、山上の展望台から見てもすぐにそれと知れる吉野のシンボルで、建築総体の威容は、信仰拠点として開けたこの地が、やがて混沌とした政治権威と相関する運命にあったことを暗示しているようです。事実、中世の金峯山寺は真言宗と結びついて、36もの僧坊と多数の僧兵を抱える大和国内の一大拠点となっていました。そのため自ずと係争の地に目され、鎌倉時代の末期に後醍醐天皇(ごだいごてんのう 1288~1339)が倒幕の意志を固めるや、その皇子護良親王(もりよししんのう 1308~1335 通称の大塔宮で知られる)が金峯山寺の僧兵と山水の険を恃んで吉野に挙兵。間もなく来襲した鎌倉幕府の大軍によって吉野は破られますが、親王は峰伝いに高野山へ脱出し、なおも頑強な抵抗を続け、ついに倒幕の立役者となります。
この事実が示すように、吉野は決して辺陬の突き当たりなどではありませんでした。その印象は、時代が下るに至って“平地”が交通上の絶対的優位を確立した後に付与されたもので、その風土と歴史を慎重に紐解いたとき、吉野は稜線を軸とした交通の要衝、山上世界におけるれっきとした“都”として機能していたのです。
《あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします!》
ひとり旅おすすめ度:★★★(人はそれなりにいるが、広い場所なので気にならない)
探訪日: 10月第1週土曜日9時ごろ
アクセス:吉野山駅から徒歩で15分ほど
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【奈良県】歴史的逸話が残された神社で思いを馳せる旅
〈観光スポット〉
元は吉水院といい格式の高い修験宗の僧坊でしたが、明治時代に吉水神社と改めたようです。
源義経が静御前・弁慶等と共に身を隠した場所であること、豊臣秀吉が吉野で盛大なお花見をされた際に本陣に使用されたなど数多くの歴史的逸話が残されています。
神社の参拝だけでなく、書院内の展示は必見です!
〈アクセス方法〉
吉野駅よりロープウェイ→吉野山駅(約5分)
吉野山駅より徒歩約25分
2022.5月時点の情報です。
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【奈良県】賞味期限は僅か10分!吉野本葛を使った和スイーツを堪能!
店名🏠葛屋 中井春風堂
住所📍奈良県吉野郡吉野町吉野山545
1人あたりの予算:820円〜
評価(5点満点):★★★★★
〈ポイント〉
*賞味期限は僅か10分。葛の魅力を最大限生かした和スイーツ。
*メニューは「吉野本葛切り」と「吉野本葛餅」の2種類。食感の違いに驚き!
シンプルなお味ですがとても美味しいです。
*当日お店に行くと予約ができるため、散策前に立ち寄りまずは予約がおすすめです。(数量限定)
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【神奈川県】明月院ブルーを愛でる!
〈観光スポット〉
鎌倉にある明月院は別名あじさい寺と呼ばれるほど有名です。
境内を埋める数千本のあじさいは明月院ブルーとも言われシーズンには多くの人で賑わいます。
あじさいが有名なお寺ですが他の季節には花菖蒲など四季折々の花が楽しめ「花のお寺」とも呼ばれているようです。
〈アクセス方法〉
JR北鎌倉駅から徒歩10分
2022.5月時点の情報です。
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