大津市役所裏にある弘文天皇陵は、壬申の乱で大海人の皇子に敗れた大友皇子が弘文天皇と追称されて、死地とされる現在の長等山の麓に祀られた陵で、何時行っても訪れる人も稀な静かな佇まいです。
大津市役所の西側にあり、辺りは人通りがある場所ではありませんのでひっそりといていると言ってよいかと思います。壬申の乱の敗戦で自殺、後日の天武系の歴史では大友皇子が大海人皇子の命を狙ったので仕方がなく兵を挙げたことになったのですが、本当はどうなのかなんて考えると面白いですね。乱の結果近江大津京は終焉を迎え藤原京、続いて天平文化が花開く平城京に歴史が進みます。
大津市役所の裏手にあります。交通機関としては、京阪電車の石山坂本線「別所」駅から5分ほどのところです。ひっそりとしていて、この時も観光客ゼロでした。ここは壬申の乱で敗れた大友皇子のお墓になり、享年25歳という事でした。
大津市役所の観光課に観光マップをもらいに行き、市役所のすぐ裏手に弘文天皇陵が載っていたので立ち寄りました。弘文天皇といえば大津に遷都した天智天皇の皇子で、壬申の乱で敗死した大友皇子です。おそらく当時も天皇に即位していたはずで、明治に弘文と追号されました。詳しくはないのですが、滋賀にある天皇陵はここだけではないでしょうか。
悲劇の天皇の墓
大津市役所裏にある弘文天皇陵は、壬申の乱で大海人の皇子に敗れた大友皇子が弘文天皇と追称されて、死地とされる現在の長等山の麓に祀られた陵で、何時行っても訪れる人も稀な静かな佇まいです。
壬申の乱で敗れた天皇が眠っていられます。
大津市役所の西側にあり、辺りは人通りがある場所ではありませんのでひっそりといていると言ってよいかと思います。壬申の乱の敗戦で自殺、後日の天武系の歴史では大友皇子が大海人皇子の命を狙ったので仕方がなく兵を挙げたことになったのですが、本当はどうなのかなんて考えると面白いですね。乱の結果近江大津京は終焉を迎え藤原京、続いて天平文化が花開く平城京に歴史が進みます。
ひっそりとあります。
大津市役所の裏手にあります。交通機関としては、京阪電車の石山坂本線「別所」駅から5分ほどのところです。ひっそりとしていて、この時も観光客ゼロでした。ここは壬申の乱で敗れた大友皇子のお墓になり、享年25歳という事でした。
壬申の乱で敗死した大友皇子(弘文天皇)のお墓
大津市役所の観光課に観光マップをもらいに行き、市役所のすぐ裏手に弘文天皇陵が載っていたので立ち寄りました。弘文天皇といえば大津に遷都した天智天皇の皇子で、壬申の乱で敗死した大友皇子です。おそらく当時も天皇に即位していたはずで、明治に弘文と追号されました。詳しくはないのですが、滋賀にある天皇陵はここだけではないでしょうか。