村上義光は鎌倉時代末期の武将。正しい名前は村上義日(通称は彦四郎)で軍記物語『太平記』では村上義光で表記されています。信濃村上氏の一族で、子孫には名将「武田信玄」を2度も直接敗北させた猛将「村上義清」がいます。 後醍醐天皇の皇子である大塔宮こと護良親王に仕え、鎌倉幕府軍との吉野城の戦いの中で、護良親王を落ち延びさせるために、親王の鎧を着て自ら身代わりとなって切腹し壮烈な最期を遂げた忠義の武将...
吉野神宮から吉野の市街に入るところ。通りの脇の小高い場所です。 元弘の変の頃、笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に供をした9名の1人。吉野山では、親王を落ち延びさせるため、親王の鎧を着て身代わりとなって切腹して果てた忠義の人と伝わります。
吉野山の観光バス駐車場手前の道脇に木々に囲まれてひっそりと建つ南朝忠臣の墓。信濃の武将で大塔野宮の身代わりとなって蔵王堂仁天門で自害した忠義の臣です。里人がここに葬ったと伝わっています。
吉野神宮を過ぎて下千本駐車場の手前付近にある。道路沿いに細い石碑があり、ようやくそれとわかる。道沿いから少し石段を上がった所だ。幕府軍に攻め立てられた大塔宮護良親王を逃すため、義光は親王の鎧を着て切腹。打ち捨てられた遺体を里人があわれに思い、弔ったのがこの墓だという。建武の新政を実現した忠臣の一人だ。現地は森の中で、苔むした宝篋印塔が立っている。よく手入れされており、墓前には花と小さな鎧が置かれ...
吉野神宮に向かうところにそっと墓があります。鎌倉幕府滅亡の年に大塔宮の身代わりとなって蔵王堂の横で自害したことを思い起こすと、歴史の哀しさがより迫ってきました。
大塔宮のために壮絶な最期を遂げた忠義の武将
村上義光は鎌倉時代末期の武将。正しい名前は村上義日(通称は彦四郎)で軍記物語『太平記』では村上義光で表記されています。信濃村上氏の一族で、子孫には名将「武田信玄」を2度も直接敗北させた猛将「村上義清」がいます。 後醍醐天皇の皇子である大塔宮こと護良親王に仕え、鎌倉幕府軍との吉野城の戦いの中で、護良親王を落ち延びさせるために、親王の鎧を着て自ら身代わりとなって切腹し壮烈な最期を遂げた忠義の武将...
護良親王に供をした9名の1人
吉野神宮から吉野の市街に入るところ。通りの脇の小高い場所です。 元弘の変の頃、笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に供をした9名の1人。吉野山では、親王を落ち延びさせるため、親王の鎧を着て身代わりとなって切腹して果てた忠義の人と伝わります。
南朝忠臣の墓
吉野山の観光バス駐車場手前の道脇に木々に囲まれてひっそりと建つ南朝忠臣の墓。信濃の武将で大塔野宮の身代わりとなって蔵王堂仁天門で自害した忠義の臣です。里人がここに葬ったと伝わっています。
ひっそりと
吉野神宮を過ぎて下千本駐車場の手前付近にある。道路沿いに細い石碑があり、ようやくそれとわかる。道沿いから少し石段を上がった所だ。幕府軍に攻め立てられた大塔宮護良親王を逃すため、義光は親王の鎧を着て切腹。打ち捨てられた遺体を里人があわれに思い、弔ったのがこの墓だという。建武の新政を実現した忠臣の一人だ。現地は森の中で、苔むした宝篋印塔が立っている。よく手入れされており、墓前には花と小さな鎧が置かれ...
1333年鎌倉幕府の滅亡の年に
吉野神宮に向かうところにそっと墓があります。鎌倉幕府滅亡の年に大塔宮の身代わりとなって蔵王堂の横で自害したことを思い起こすと、歴史の哀しさがより迫ってきました。