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【吉野(①金峯山寺と峰道の開通)】(奈良

<山嶺の諸道を統括した山上世界の都 玄妙な信仰と風土が日本の“裏面史”へ誘引します> “吉野”の日本史における特異な存在感は、“山”ではなく“峰”であったことに起因すると考えます。峰はあくまで行路の一つで、そこが終着ではない……古来この峰を通った無数の人生は、眼下を遥かに望みながら“岐れ路”に立ち、己のあるいはこの国の、来し方行く末に想いを馳せたのではないでしょうか。それゆえ、吉野の歴史はちょうど雲霧の揺曳する景観そのものの趣きに通うように、正史で捉えることの叶わぬ劇的な“裏面史”、そして多くの宗教的、文学的装飾に彩られています。 大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)は、熊野から吉野までのおよそ80kmに通じる山道です。この道を拓いた役小角(えんのおづの 7世紀頃)は、大和国(やまと 現在の奈良県)葛城山系の麓に生まれた人物で、前鬼後鬼を従える強力な法力を巡らせ、諸道に山岳信仰を伝播しました。その生涯は多分に伝説的でありながら、史書(続日本紀)にも録されるなど、古代史に玄妙な奥行きをもたらす存在です。 役小角は吉野金峯山(きんぷせん)の頂で修行に勤しみ、現世の平安と悪障の降伏を祈念します。その念力に応えて出現したのは釈迦如来、観音菩薩、弥勒菩薩の三尊でしたが、役小角はさらなる仏力を求めて祈念を続けました。するとにわかに天地が鳴動し、雄渾な憤怒相の権現仏を感得。これこそが“蔵王権現”で、釈迦、観音、弥勒の三尊が、役小角の強力な法力に応えて変現したものと伝わります。役小角はその尊容をヤマザクラに刻み、山中に祀りました。祭祀の地は後に“金峯山寺”(きんぷせんじ)となり、役小角を開祖とする修験道の本山そして吉野の中核として今日まで繁栄します。 現在、金峯山寺では高さ7mにも及ぶ巨大な蔵王権現三尊を祀ります。雑味の無い濃厚な質感の青に色塗られたダイナミックな姿態、そして深く刻みつけられた憤怒相の在り様は自然の霊威そのものを充溢させたよう。とりわけ、期間限定で開催される夜間拝観の際には、突如として像を照射するため、深淵な暗闇の中に顕現したその様はさながら一閃の雷光を想わせる凄絶な印象をもたらします。この巨像を蓋う蔵王堂(本堂)も、およそ狭小な峰筋にはふさわしからぬ規模の建築で、高さ34mにも及ぶ豪壮なもの。巨大な木材を緊密に組み合わせた基幹をしっかりと掌握する檜皮葺の大屋根は、山上の展望台から見てもすぐにそれと知れる吉野のシンボルで、建築総体の威容は、信仰拠点として開けたこの地が、やがて混沌とした政治権威と相関する運命にあったことを暗示しているようです。事実、中世の金峯山寺は真言宗と結びついて、36もの僧坊と多数の僧兵を抱える大和国内の一大拠点となっていました。そのため自ずと係争の地に目され、鎌倉時代の末期に後醍醐天皇(ごだいごてんのう 1288~1339)が倒幕の意志を固めるや、その皇子護良親王(もりよししんのう 1308~1335 通称の大塔宮で知られる)が金峯山寺の僧兵と山水の険を恃んで吉野に挙兵。間もなく来襲した鎌倉幕府の大軍によって吉野は破られますが、親王は峰伝いに高野山へ脱出し、なおも頑強な抵抗を続け、ついに倒幕の立役者となります。 この事実が示すように、吉野は決して辺陬の突き当たりなどではありませんでした。その印象は、時代が下るに至って“平地”が交通上の絶対的優位を確立した後に付与されたもので、その風土と歴史を慎重に紐解いたとき、吉野は稜線を軸とした交通の要衝、山上世界におけるれっきとした“都”として機能していたのです。 《あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします!》 ひとり旅おすすめ度:★★★(人はそれなりにいるが、広い場所なので気にならない) 探訪日: 10月第1週土曜日9時ごろ アクセス:吉野山駅から徒歩で15分ほど #吉野 #金峯山寺 #吉野山 #奈良 #奈良県 #奈良旅行 #奈良観光 #わたしは奈良派 #うましうるわし奈良 #いまふたたびの奈良へ #奈良好き #吉野町 #国内旅行 #国内旅行好き #お寺巡り #お寺好き #寺社仏閣 #寺社仏閣巡り #役小角 #修験道 #仏像好き #仏像巡り #古寺巡礼 #蔵王権現 #世界遺産 #国宝 #木造建築 #歴史好き #ひとり旅 #旅のある暮らし
投稿:2024年1月9日
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