中華街の中の関帝廟の通りにある。 中華街の中学と言うか重慶飯店の入っていた建物がある方に。 碑としてはかなりしっかりした作りで色々書いてある。
中華街の関帝廟近くにあります。文字が小さすぎて読めませんが、英字新聞を翻訳して発刊したそうです。もともと居留地では『ジャパンヘラルド』(週刊)が出されていたのですが、これらを含め海外の新聞を翻訳して『海外新聞』として発刊したのが最初。ジョセフ・彦という米国領事館通訳で、後にリーンカーンと握手した唯一の日本人となりました。
横浜・中華街、横浜関帝廟の近くにある石碑。1864年幕末に活躍したジョセフ彦によって日本初の新聞をここで発行地。派手な看板に目を奪われ足元にあるこの石碑をうっかり通り過ぎてしまった。
横浜中華街の関帝廟通りの端に茶色の記念碑があった。 ここが居留地であった頃、ジョセフ・ヒコ(元の名を浜田彦蔵)がここで発行された英字新聞を翻訳、それが新聞発祥の地となっている所以。 ジョセフ・ヒコは乗っていた船が難破、拾われた船でサンフランシスコに。 後に帰国し、領事館の通訳をしたり商社を立ち上げたりした人と言うことです。
横浜中華街の一角、横浜関帝廟の近くにこちらの碑はあります。1864年にジョセフ彦というものによってこの地で刊行された「海外新聞」が日本における新聞発祥と言われているようです。ジョセフ彦は暴風雨にあって遭難後、アメリカ商船に救われアメリカに渡り、その後アメリカ領事館職員として来日して新聞を発刊したとの事です。なかなか興味深い歴史が知れました。
新聞発祥の地
中華街の中の関帝廟の通りにある。 中華街の中学と言うか重慶飯店の入っていた建物がある方に。 碑としてはかなりしっかりした作りで色々書いてある。
『海外新聞』を発刊
中華街の関帝廟近くにあります。文字が小さすぎて読めませんが、英字新聞を翻訳して発刊したそうです。もともと居留地では『ジャパンヘラルド』(週刊)が出されていたのですが、これらを含め海外の新聞を翻訳して『海外新聞』として発刊したのが最初。ジョセフ・彦という米国領事館通訳で、後にリーンカーンと握手した唯一の日本人となりました。
派手な看板に目を奪われ通り過ぎてしまった
横浜・中華街、横浜関帝廟の近くにある石碑。1864年幕末に活躍したジョセフ彦によって日本初の新聞をここで発行地。派手な看板に目を奪われ足元にあるこの石碑をうっかり通り過ぎてしまった。
日本語で書かれた(英字新聞を翻訳)新聞がはじめて刊行された。
横浜中華街の関帝廟通りの端に茶色の記念碑があった。 ここが居留地であった頃、ジョセフ・ヒコ(元の名を浜田彦蔵)がここで発行された英字新聞を翻訳、それが新聞発祥の地となっている所以。 ジョセフ・ヒコは乗っていた船が難破、拾われた船でサンフランシスコに。 後に帰国し、領事館の通訳をしたり商社を立ち上げたりした人と言うことです。
海外新聞
横浜中華街の一角、横浜関帝廟の近くにこちらの碑はあります。1864年にジョセフ彦というものによってこの地で刊行された「海外新聞」が日本における新聞発祥と言われているようです。ジョセフ彦は暴風雨にあって遭難後、アメリカ商船に救われアメリカに渡り、その後アメリカ領事館職員として来日して新聞を発刊したとの事です。なかなか興味深い歴史が知れました。